アンラーン(学び捨て)ということ

ISBN:4768479170:detail
 この本を読みながら考えたことを少し書いてみたい。今回は、自分が最近特に問題意識を持っていることと関連したところだけを取りあげていきたい。ここで取りあげるのは、第3章 学校の教育課程づくり と第4章 教育方法の再創造 というところだ。
 第3章は、教育課程と単元構想づくり、教育実践から創る、内容研究から創るという3節の構成になっている。子安氏は冒頭「教育課程づくりの中心は、学校である。」と述べている。これは、ごく当たり前のようであって実際にはほとんどできていないという現状がある。
 昭和22年度版学習指導要領一般編(試案)では、次のように述べられている。

 もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。しかしそういう目標に達するためには,その骨組みに従いながらも,その地域の社会の特性や,学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて,それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え,その方法を工夫してこそよく行くのであって,ただあてがわれた型のとおりにやるのでは,かえって目的を達するに遠くなるのである。またそういう工夫があってこそ,生きた教師の働きが求められるのであって,型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない。そのために熱意が失われがちになるのは当然といわなければならない。これからの教育が,ほんとうに民主的な国民を育てあげて行こうとするならば,まずこのような点から改められなくてはなるまい。このために,直接に児童に接してその育成の任に当たる教師は,よくそれぞれの地域の社会の特性を見てとり,児童を知って,たえず教育の内容についても,方法についても工夫をこらして,これを適切なものにして,教育の目的を達するように努めなくてはなるまい。

 こういった意識はますます希薄になりつつあるように思う。それは、現場の問題と同時に教員養成課程においても、自分たちで教育課程をつくるということを前提とした学びがあまり行われていないことも要因として考えられる。
 子安氏は、この章の中で、単元づくり、授業づくりのための3つのアプローチを紹介している。一つ目は、ワークシートを使ったもの。二つ目は、これまでに行われてきた実践からつくっていくもの。三つ目は、教えることの内容研究からつくっていくものだ。
 どのアプローチも参考になるものばかりだが、ここでは3つ目の教えることの内容研究からつくっていくものを取りあげたい。
 子安氏は、「このアプローチは、単元を構想することになる文献との出会いが決定的である」と述べている。そして、大量の資料の収集が必ずしも必要なのではなく、「今までの常識を覆してしまうような文献、実践に展望を与えるような本との出会いこそが単元を創ることを促すのである。」と述べている。
 そのような本との出会いを保障するのは「問題意識」であると子安氏は述べている。この「問題意識」は、子安氏が以前http://koyasu.jugem.jp/?eid=425で述べられ、私も好んで使っている「批判的まなざし」という言葉とほぼ同義のものだと考えられる。
 私がこの3つめのアプローチを取りあげた理由は、教育実践を見ていて、先日も左巻健男氏の批判を取りあげたが、教えることの内容を研究し、そこから単元や授業を構想するということが少なくなっているのではないかと考えているからだ。
 この節では、憲法九条の学習という具体例が示されている。詳しい内容は、ぜひ本書を読んでいただきたい。
 次に、第4章について。この章では、まず最近流行している教育方法について批判が加えられている。次に、「反統制主義と反癒しの授業」ということで、教員が子どもの活動を極度に統制する授業とリアルな現実と乖離したワークショップ的な学びについて批判されている。そして、授業の「アンラーン」ということについて述べられている。
 今回ぜひ取りあげたいのは、最後の「アンラーン」ということについてだ。子安氏は、「アンラーン」という言葉を

 アンラーンというのは、学ぶことによって捨て去ることを意味する。勉強しないということではなくて、すでに学んでしまった認識や偏見を捨て去ることを意味する。関係をつくるとか、繋がるということとかかわって言えば、これまでの世界とのかかわり方、つながり方を捉え直し、変えていくことを意味する。

と定義している。
 子どもたちの「学力」が低下したと言われるとき、それは子どもたちの知識の量が減少したことを指している。だが、子安氏は、学ぶこと、知識の量が増えることによって翻弄されたり、偏見を持ったりすることを指摘している。そういったことは、これまであまり意識したことがなかった。
 そして、以前も引用したことがあるが、デューイの『経験と教育』の中の次のような言葉をふと思い浮かべた。

 もし学習の過程において、個人がほかならぬ自分自身の魂を失うならば、価値ある事物やその事物に関連する価値に対して批判する能力を失うならば、さらにまた学んだことを適用したいという願望を失うならば、とりわけこれから起こるであろう未来の経験から意味を引き出す能力を失うならば、地理や歴史について規定されている知識量を獲得したところで、また読み書きの能力を獲得したところで、それが何の役に立つというのであろうか。

 これは、誤読であるのかもしれないが、子安氏の言う「アンラーン」とデューイの言っていることはよく似ているのではないかと思う。
 子どもたちの学ぶこと、価値観、世界とのかかわりかたなどがアプリオリに与えられ、それを子どもは学んでいく。そういう状況の中で、子どもたちはそれを疑うこと、批判することを許されず、教員は「教育技術」を駆使し、子どもたちの学びを統制する。
 それに抗するために「アンラーン」というのは必要なものであると思う。こういう時期にこの本と「アンラーン」という言葉に出会えたことは、よかったと思った。誤読や偏見で書いた部分があると思うので、ぜひ、直接本書を手にとって読んでいただきたい。お薦めの本です。