道徳教育について(2)

『城丸章夫著作集 第1巻 現代日本教育論』 第四章 集団教育論 第三節 道徳教育論 より引用。

 特設「道徳」は、具体的な方法としては、何ごとをも示していない。否、特設時間中に取りあげるべき具体的な内容さえも示していないといってよい。抽象的な徳目だけが目標なら、野球をしていても受験準備の補習授業をしていても、すべて徳目に関係するのであり、野球や補習授業では補充・深化・統合できないという論拠はどこにもないのである。だから、特設「道徳」の具体にまで下ろした内容は特設という方法であり、そして方法としては、特設という一事があるのみである。そこで私たちも、特設という一事をここでは追求してみたい。
 特設「道徳」はスマートな顔つきで発足した。しかし、このスマートさは、先に述べたように、特設という事実に矛盾する。スマートでないだけでなく、道徳の本質に反する。たとえば、真理を教えるには、人は国語・数学・社会科・理科というような諸教科を教える以外に方法はない。真理という特設時間を、仮に設けたとしても、そこで教えるべき具体的内容は、哲学的認識論でも展開する以外には、やることが何もない。同様に、特設「道徳」で仮に何かをやるとしても、具体的には、それはあるときには文学であり、あるときには理科であり、演劇であり、児童会等々である。たとえば、紙芝居をやってみせたとする。子どもは紙芝居を「道徳」用には見てはくれない。紙芝居は面白かったか面白くなかったかが子どもの関心事である。それ以外のものではありえない。文学を読んでやったとする。「道徳」用の文学がないとすれば、文学は文学として取り扱うしか方法がない。でなければ「道徳」によって文学を殺すこととなる。私は現場の先生方におすすめする。特設論者に出あったら、まず謹んで模範授業をしていただき、それからやおら「さっきの授業のどの部分で補充・深化・統合されたことになるのか」と聞き、次に「あれでは物事が一面的で補充・深化・統合どころか浅化・分割されている」と主張してみると、たいへん面白いと思う。ましてその授業と批評会の問答とを記録しておいて、天下に発表したら、まことに珍妙なものが生まれてくると思う。嫌がらせのために、私はこのことを主張しているのではない。道徳教育の探求には、こうした客観的材料によって、たんなる政治屋論議とは区別してみることが大切だと考えるからである。
 特設を支持する論者のなかには、欧米にはキリスト教というバックボーンがあって、家庭教育が充実し、学校での指導にもすじが通っているから「道徳」特設の必要がないが、日本のように宗教的信仰心をもたない国では、特設の必要があるというのである。こういう論者の主張をおし進めていくと、どうやら中世が一番道徳のさかえた時期にあたるらしい。また、宗教のなかではキリスト教が道徳的には最高の宗教であるらしい。まことにおめでたいことである。宗教教育を施す私立学校では特設「道徳」の必要がないと指導要領が認めているのは、このためであろう。また、高校や大学でも宗教の単位をとれば、倫理の単位の代用品と認めることとなるらしい。まことに至れり尽くせりである。と同時に、宗教と道徳とをイコールに置かれて安心し切っている宗教の側も、少しばかりのんきすぎるのではないだろうか。宗教がもっている反道徳、もしくは超俗という側面は、これでは死んでしまうではないか。さらに考えてみれば、宗教と同じ意味で「道徳」を公の諸学校に課そうとするものであれば、これは憲法第一九条及び二〇条に対する違反である。いや、そもそも「道徳」の名において特定の価値観を強制するそのことが憲法違反であるという学説さえあるのである(たとえば、宗像誠也氏)。その証拠を知りたいならば、試しに宗教を実施している私立学校に「道徳」を強制してみればわかる。猛然とした反撃を受けることが必定だからである。
 少々、わき道にそれたが、「キリスト教というバックボーン」説と「外国では家庭教育が充実している」という伝説について、ここで一言ふれておかねばならない。これらについては欧米帰りの「見て来た話」と称するものが幅をきかしているから、特に注意が必要である。たとえば『日本のゆくえと道徳教育』の筆者平塚益徳氏は、ニューヨークの旅舎で、欧米人の道徳教育が宗教教育に根ざすという大発見をされているのである。そして、その家庭教育の立派さを讃えられるのである。ただし、日本人が家庭教育を充実したいと願いながら、過重な労働と貧困とのために、子どもの教育を見棄てざるをえないでいるという事実には何らの同情を示さず、「勤勉な日本人」などとおだてられるほどに日本について無知であることは、愛国者ぶっておられるだけに、まことに気の毒である。と同時に、その「見て来た話」の信用度もどの程度であるかは想像にかたくない。平塚氏が学者であって政治屋でないなら、欧米の一部ではなぜ第二次大戦以後になって、にわかに宗教教育に熱心となりはじめたのか、また、そのためになぜ、宗教教育に反対する勢力が活発にこれとたたかいつつあるのかを冷静に客観的に述べるべきであった。道徳の高さや家庭教育をいう前に、どんなに欧米の家庭教育が無力化し、日本人が驚くような悪徳がひろがっているかを述べるべきである。キリスト教も欧米の産物であるなら、ストリップも残虐な殺人マンガも欧米の産物であることを述べるべきである。特に教育史のさし示すところによれば、宗教の名によって特定の行為(たとえば、原料を盗むなかれ、労働時間を盗むなかれ)を強制することに対するたたかいや、無宗教の公立学校を作り出すためのたたかいが、欧米の学校教育確立の基本的たたかいの一つであったことを述べるべきである。イギリスの紳士がパブリック・スクールに子どもをあずけたのは、彼らの信仰心の厚さではなくて、ブルジョアとしての団結と敢闘精神とを養うためであり、根っからの階級本位の根性であることぐらいは述べてもよいし、それが日本に輸入されて、軍隊における将校と兵との区別となり、高級官僚と一般国民との区別となり、教育もそれに相応して幼年学校・陸軍士官学校旧制高等学校帝国大学を生んだことくらいは述べてもよさそうなものである。
 欧米で「道徳」を特設しないのは宗教や家庭教育のためではない。そうではなくて、発達した資本主義社会は、要領よく状況に適応する人間を望んだから、徳目による特定の行為の強制よりは、人間の良心の問題として万事についてそっとしておくほうがよかったからである。また、最近の宗教教育の復活は、冷戦の遂行には、宗教によって反共イデオロギーと特定行為への誘導をすることが便利だからである。そういう意味では、日本の「道徳」の特設は、アジアにおける反共基地という政治的役割と、決して無関係ではないであろう。池田・ロバートソン会談はそのことを傍らから証明している。
 さて、時間特設の教育上の危険は、まず第一にこれをめぐる行政指導にある。行政指導によって特定の具体的内容と方法とを現場におしつけようとする傾向があることである。いや、そもそも「道徳」特設の政治的ねらいがここにあったともいえる。「道徳」を突破ロとして、現場の指導の良否善悪に対するいっさいの判定権を官僚が握りたいという意図は、「道徳」問題の発生以来、社会的に周知の事実である。学習指導要領が法的にどの程度の拘束力をもつかが論議の対象になると、当局者は、きまって「国がきめてどこが悪いか。そんな国はたくさんある」と主張してきた。しかし、この場合の「国」とは何であろうか。少数の官僚以外の何者でもない。その官僚が、良否善悪の判定権をにぎり、特定の内容と方法とを直接的に指示することが許されてよいであろうか。指導要領や「道徳」特設を批判する者を目のかたきとして、批判に対する抑圧を企図する官僚があってよいであろうか。少なくとも日本が法治国であり、官僚が公僕であるならば、そんなことを許してはいけない。さすがに指導要領の公式な解釈では、一面では批判の自由を官僚当局も認めている。これは当然のことである。
 しかし、それにもかかわらず、私たちは行政指導による具体的教育のおしつけについての不安を十分にもっている。従来の、どちらかといえば自由な講習会―その講習会では指導要領の批判をする講師もいた―にかわって、全国的に、統制された講習会の開催。すでに指導主事によってなされている職場に対するさまざまな指導。これらは私たちの不安が決して得手勝手な想像ではないことを示している。
 危険の第二は、教科における場合と同じような能率主義が、教師を支配する可能性が強いことである。わかりやすくいえば、「道徳」の指導が、進度によって支配される可能性が濃いのである。日本の教師の伝統的な考え方では、自分が予定したことをしゃべったり、子どもにさせたりすると、学習が「終わる」のである。子どもが何をどれだけ学んだかではなく、教師が何をしたかという進度が問題なのである。いわゆる「新教育」は、この能率主義に打撃をあたえたはずであったが、決定的ではなかった。しかも、とうとうとして改訂学習指導要領の主流をなしてきたのは、能率主義の考え方である。すでに、「道徳」に対する行政指導の重点は、指導計画と称するカレンダーの作製に置かれている。カレンダーには多少の弾力性があるとはいえ、必然的に問題となるのは、「どこまで進んだか」である。また、これらの指導をとおして、三六項目の徳目のうち、いくつの徳目を取り扱ったかということである。徳目を取り扱ったかどうかをチェック・リストによってチェックするというていねいな「くふう」さえ始まっている。「道徳」指導を能率化するための「視聴覚教具の利用」などという研究テーマをもった当局指定の研究学校も生まれている。
 なるほど、指導はすべて効果的で能率的でなければならないであろう。しかし、「道徳」の時間に「友情」の学習が「終わった」とはどんなことなのであろうか。それは子どもが「終わった」のか教師が「終わった」のか。このような指導をつづけるかぎり、「道徳」が修身と似てくることは必然であると考えられる。
 危険の第三は、目標として「徳目」が設定されているという事実からくる指導方法の制約にある。徳目が目標として無意味であることは先に述べたとおりである。しかもなお、徳目が目標とされているのは、子どもを道徳的人間にすることに関心があるというよりは、学習指導の方法を制約する上での効果がねらわれているのであると考えられる。
 私たちは、戦前の生活修身の不幸な事例を思い出さないわけにはいかない。修身科というにせ物の教育に対して、子どもの自治活動を大切にし、日常生活のなかから道徳教育の話題と実践とを拾って来ようとしたのが生活修身であった。一部の教師たちは、当局者の白眼視にもかかわらず、このような形で修身科の否定を試みたのである。しかも不幸なことには、国定修身教科書と修身という特設時間が存在するかぎり、自由な学級の討論も活動も、すべて究極においては教科書の徳目の方向にひきずられざるをえなかった。自治会の討論は修身教科書の徳目を子ども相互がおしつけあいをする場となり、特設修身は、この徳目への至らなさの反省をする場となった。小さな偽善者作りという修身科の矛盾は、拡大こそすれ解消しなかった。目標としての徳目が、ガンとして行手をさえぎっていたからである。
 指導要領の目標としての徳目が、このような役割を果たさなければさいわいである。「生活指導は方法であって目標ではない。目標は道徳である」と特設「道徳」論者は主張している。しかし、かれらがいう目標は、実は徳目にすぎず、かれらがいう生活指導とは権力による行為の干渉のことであり、子どもに対する教育外強制のことにすぎない。
 危険の第四は、第二および第三がもたらす必然の結果として、行為と認識とは、子どもにとっても教師にとっても分裂した二つのものとして現われて来ざるをえないことである。なぜなら抽象的・徳目的認識は、現実的・具体的行為の指針とはなりえず、具体的行為の指針はひそかに他の生活原理や指導原理を導入せざるをえないからである。戦前の修身の二の舞が新しい形で演ぜられる危険が十分にある。すでに、道徳教育はしつけを強化することであり、「道徳」のお話はしつけを容易にするためであるという理解が、古い校長・教頭層を支配しつつある。指導要領が「学校教育の全体をとおして行なう道徳教育をやめたのではない。特設は、ただ、それを補充・深化・統合するだけだ」と当局者がいうとき、現場側における受け入れ態勢は、「全体をとおして」とは全体を一貫してしつけを行なうことであるという理解への強い傾向が存在している。否、しつけという名前で、有無をいわさずに特定行為を強要し、また、このような形で服従の習慣を養成することが、道徳教育の基本的方法であると考えられさえしているのである。だから、体罰教育が各地で復活しつつあるのである。
 特設「道徳」の特設は、百害があって一利がない。政策上の悪意でなければ、過誤である。あやまちを改めることを恐れてはならない。今日の国民は、政府に道徳の判定をしてもらうような奴隷ではない。今日の子どもたちが不良になったりするのは、徳目を知らないからではなく、生活への意欲を失いがちであるからである。生活のなかで、何を自己の未来のよりどころとしたらよいのか、それが見出せないで苦しんでいるのである。道徳指導は、子どもたちの具体的生活のなかから、国民的利益と、労働の意義とを発見させ、国民のなかでの自己の位置と役割とを発見させることを抜きにしては成立しない。特設「道徳」の特設は、こうした子どもたちの苦しみを無視して、顧みて他をいうものである。こういう特設はやめねばならない。