「教育」と「しつけ」

「教育」とは

21世紀の教育と子どもたち (4)

21世紀の教育と子どもたち (4)

 森重雄 「教育のある時代と教育のない時代--二一世紀の教育を考えるために」の中で森氏は、

 この国の近代化の名義的開始点をなす明治維新以前には、教育の語彙はほとんどまったく知られていなかった。

ということを指摘している。

「教育」と「しつけ」

 森氏が同論文の中で指摘しているように、一般的に「教育」という言葉から想起されるものとしての「教育」は、この国では明治以前の段階では「存在しなかった」。
 これは重要な意味を持つ。「教育」がなぜ明治以前に存在しなかった。そうであるならば、それ以前から存在するものとは区別して捉える必要がある。ここで言いたいのは「教育」と「しつけ」とを区別して考えるということ。
 森氏は「教育」が「学校から派生し普及してきた語彙であり減少である」と指摘している。「しつけ」という語彙、現象が明治以前から存在するものであるなら、「しつけ」と「教育」は異なるものとして捉えられるものであり、「学校」では「しつけ」は行われないものと捉えられる。
 しかし、「教育」と「しつけ」との境界線が曖昧になっていること。その曖昧化によって「教育」の一環としての「しつけ」や「しつけ」の一環としての「教育」という奇妙な捉え方が現れていること。「教育」の方法と「しつけ」の方法とが区別されずないなど、極端な言い方をするなら、時と場合によって両者が都合よく使用されている状況にある。

「しつけ」と「学校化」

 「しつけ」は「学校」の存在の有無とは関係なく「存在」していた。そうであるならば、「学校」において「しつけ」が行われるという捉え方は奇妙なことである。もし、学校において「教育」の強化や再生が行われるとしても「しつけ」は同時に強化されたり再生されたりしない。両者は必ずしも連動しないからだ。そして、学校で教育を行う「教師」によって「しつけ」は占有されるものではない。
 「しつけ」が学校にのみ押してけられる、学校で「しつけ」を行うことが期待されるのは、「教育」と「しつけ」とが混同され、「教育」と「しつけ」とが「学校」という制度の中で、子どもは「教育」も「しつけ」もされるのだという「学校化」が進行しているからだ。「しつけ」は「学校」という制度の中で提供される「サービス」の一つへと変化しつつある。
 繰り返しになるが、「しつけ」は「学校」という制度の有無に関係なく存在していた。しかし、「学校化」によって「しつけ」を学校という制度が占有するようになれば、「しつけ」は本来の姿とはかけ離れたものへと変化し、「学校」という制度の如何、「教育」の如何に左右されるものとなる。それによって「しつけ」という語彙や現象の基盤を切り崩すことになる。
 基盤の脆弱化は「しつけ」の存在を危うくし、「しつけ」への不安も増大化させる。その不安の裏返しとして、学校に対して「しつけをしてほしい」と過剰な期待が寄せられるようになれば、学校化が進み、「しつけ」の基盤はますます脆弱化するという悪循環を生み出すことになりかねない。
 「教育」と「しつけ」を区別するというのは、馬鹿げていると思われるかもしれない。また、それは単なる言葉遊びだと言われるかもしれない。それでも敢えて区別するのは、「教育の再生・強化」と「しつけの再生・強化」とは同じではないということを強調したかったからだ。