不思議な教科書観

 世界中どこを見渡してみても、価値中立な教科書はない。偏向していない教科書もない。けれど、最近の日本には不思議な教科書観が広がりつつある。価値中立で偏向していない教科書という教科書観だ。ついでに言えば、学習指導要領も価値中立ではないし、偏向している。教科書も学習指導要領も価値中立ではないし偏向しているというごく当たり前のことを前提になぜ考え、議論しないのだろうか。

まだいる全国学力テスト万能主義の人たち

 なぜこれほど「学力テスト」について無理解なのだろうか。静岡県知事が「責任の所在を明確化するため」として成績上位校の校長名を公表するという話。学力テストの成績の責任と言うけれど、そもそも、その学力テストは何を評価するためのものだろうか。子どもの学力?教師の力量?全国学力テストはあらゆるものを評価できる万能のものだと考えられているようだ。しかし、それは間違いであり、妄想であり、勘違いだ。
 全国学力テストは、国が行っている。それは、国が教育施策を策定し、それを実行し、それを評価するためだ。国が教育に責任を持つ。そのためには評価をし、教育施策を見直し、実行し、評価をしていく必要がある。そのために設計された学力テストだ。
 学力テスト万能主義の人たちに考えてもらいたいのは、学力テストはある目的のために設計される。そのために限定したものだけしか評価できないということだ。表面的には様々なものを評価できるように見えるかもしれない。しかし、それはそう見えるだけであり、目的外のためにそのテスト結果を利用することは間違っている。
 PISAを例にして考えてみるといい。PISAの調査で、全国学力テストのように教師の力量を評価できると考えるだろうか。おそらくそうは考えない人が多いだろう。なぜか?抽出調査だからという人もいるかもしれないし、PISAはそういうものを評価するものではないと思い込んでいるからかもしれない。全国学力テストは全数調査だ。だからPISAでは評価できないものを評価できるという考え方がある。けれど、全数調査は共通の問題を使い、共通の質問を行う。それは調査範囲の限界があることを示す。つまり、全国学力テストはPISAより評価できるものが限られている。万能ではないということだ。
 静岡県知事のやっていることはテストの目的外使用であり、責任の所在を間違って明確化しようとしている。全国学力テスト万能主義を早く捨てるべきだ。

予算委員会 2013年4月10日 議事録より引用

○山内委員みんなの党山内康一です。

最初に、下村大臣に、道徳教育の教科化についてお尋ねをします。

世界で、道徳教育のカリキュラムを国が定めて、全国一律でやっている、そういう先進国はありますでしょうか。

○下村国務大臣諸外国の道徳教育については、韓国では、道徳を教科として位置づけ、国の定める教育課程に基づき教育を行っていると承知をしております。

各国の教育課程の構成に関する制度、その内容はさまざまであり、ヨーロッパでは、それを宗教という科目の中で位置づけているという国も多々あります。

それぞれ一概には申し上げられませんが、歴史的背景を踏まえた教育が行われているというふうに承知しております。

○山内委員韓国の道徳教育をまねしたいかどうかは別として、恐らく先進国ではほとんどやっていないと思います。恐らく、道徳というのは宗教の役割であるといったような発想がヨーロッパでは多いと思いますし、道徳教育を国としてやっている、OECD諸国では、韓国を除くと、ほとんどないというよりは、ないというふうに私は理解をしております。

大体、憲法で、思想、信条、良心の自由が認められているわけですから、道徳教育、道徳というと良心にかかわる問題ですから、国家が中央集権的に、あるいは官僚的に、道徳、良心を押しつけるというのはちょっと慎重であるべきではないかという論調がヨーロッパなどでは多いのかなというふうに思っております。

次に、道徳教育の効果についてお尋ねをしたいと思います。

今回、道徳を教科化しようという動きの理由として、いじめ問題への対策ということが掲げられております。教育再生実行会議でも、いじめ問題の対策として道徳教育が挙げられていると思いますが、道徳教育を強化したらいじめがなくなるという根拠はどこにあるんでしょうか。何か具体的な証拠があるんでしょうか。

○下村国務大臣このたび、教育再生実行会議の第一次提言の中で、いじめ対策の一つとして、道徳の教科化というのが提言されました。

しかし、それは、国家の特定の価値観を国民に押しつけるということではさらさらないわけでございまして、これは、国境を越えて、また歴史を超えて、人が人として生きていくために学んでおくべきルールとかマナーとか規範意識があるわけでございまして、こういうものをきちっと学んでいないために、知らないうちに、例えば人を傷つける、いじめる。加害者にも被害者にも傍観者にもならないという意味では、人が人として、ある意味では生きていく、そういう常識的なものをきちっと教えていく必要があるのではないかということから、いじめについても、提言の中で、道徳の教科化が提言されたことでございます。

この道徳教育を通じて、規範意識や自己肯定感、それから社会性、思いやりの心など、豊かな人間性を育むということは、いじめ問題を根本的に解決する上で大きな意義を持つものと考えます。

○山内委員大臣のお考えはわかりますが、道徳教育を教科化したらいじめ問題がなくなるという、何か具体的な、実証的なものはあるのかと聞いているわけです。

○下村国務大臣それはよくおわかりで御質問されていると思いますが、道徳教育をすればいじめがなくなるということはもちろんありません。しかし、少しでもいじめ問題の解消につながるのではないか、手だてになるというふうに思います。

なぜかといえば、この道徳教育の実施によって、人として、人間として、してはならないことはしないようにする、こういうことを随時、道徳は、一つの教科と同時に、学校教育全体を道徳として位置づけることによって、そのようなことを常日ごろ子供たちに教えていくということは、結果的に、いじめそのものがゼロにはなりませんが、少なくしていく、そういう手だてにはなると思います。

○山内委員いじめによる自殺ということで有名になりました大津の中学校、この中学校は、文科省の道徳教育実践研究事業のモデル校だったというふうに報道をされております。道徳教育を文科省主導で強化した、まさにモデル校でいじめが起き、そしてそれが自殺につながっているということですから、逆に、道徳教育を強化しても、自殺対策にもいじめ対策にもなっていないことを実証してしまったモデル校になってしまったわけです。

そういった意味では、道徳教育をやったらいじめがなくなるというのは、どうやらストーリーとしてはそのように、何となく納得いくんですけれども、実証的には全く証明されているものではないと思います。

そういった意味で、なぜ今道徳教育を強化するのか、私にはちょっと理解できないところがありますので、次の質問をしたいと思います。

道徳教育を強化しなくてはいけないという判断の背景には、道徳水準が下がっているという御認識があるという理解でよろしいんでしょうか。まず、大臣にお聞きします。

○下村国務大臣まず、大津の自殺の問題ですが、そこの学校における、確かに道徳の推進モデル校になっていたということでありますが、それが果たして本当にきちっと徹底して行われていたのかどうか、相関関係があったのかどうかということについては、これは委員が確認して御質問されているのかどうか伺いたいぐらいですが、これがきちっと徹底されていなかった部分が相当あったのではないか。名前だけのモデル校になってしまって、真の意味での道徳推進モデル校としての教育が十二分に行われていなかったというふうに我々は聞いておりますし、ですから、必ずしも相関関係ということでは、ちょっと視点が違うのではないかと思います。

今、社会全体で、かつてから比べると、道徳、規範意識が低下しつつあるのではないかというのは、大方の国民の皆さんの認識としてもあるのではないかというふうに思います。

○山内委員道徳意識、規範意識が下がっているという大方の見方ということをおっしゃいますけれども、それは具体的に何か裏づけるデータというのはあるんでしょうか、それとも印象でおっしゃっているんでしょうか。

○下村国務大臣突然の質問でございますので、今私の手元に具体的な客観的なデータを持ち合わせているわけではありませんが、しかし、今の日本の状況は、かつてから比べると、そういう意識を持っている国民が多いのではないか、そういう認識を持っているということでございます。

○山内委員実際、道徳の水準というのは、恐らくはかることは難しいと思います。そういう調査もやっていないと思いますし、実際、道徳のレベルを何か統計でとるということも難しいとは思います。他方で、何らかの別のデータを用いて道徳水準を間接的に評価する、あるいは傍証として考えることはできるのかなと思います。

そこで、一つのデータとしてお見せをしたいと思います。

凶悪犯少年の検挙人数というデータを用意させていただきました。よく、教育再生を訴える人というのは、大体、青少年の凶悪犯罪がふえているということを主張される方が非常に多いです。教育が荒廃しているから青少年の凶悪犯罪がふえる、そういう主張をする方が大変多いわけです。

そこで、少年による凶悪犯の検挙人数のデータを見ていただきたいと思います。

ここで言う凶悪犯の定義は、殺人、強盗、放火、強姦、凶悪な犯罪です。それから、少年の定義は、十四歳以上二十歳未満となっております。こんな中で、例えば、昭和三十三年と平成二十四年を比べると、凶悪犯罪は非常に減っている、少なくなっているというのは明らかだと思います。あるいは、殺人のデータを見ると、当時と比べると今の方が八分の一です。確かに人口が当時と違うということはありますが、仮に人口で補正したとしても、恐らく凶悪な少年犯罪というのは昔の方が随分多かったということは、事実としてあると思います。

そういった意味では、少年犯罪の凶悪化を理由にして教育再生を訴えるというのは余り、裏づけとしては弱いのかなというふうに思います。

そして、実は、昭和四十七年、これはちょうど安倍総理と下村大臣が少年だったころ、平成三年というのは私が少年だったころということなんですけれども、当時、三十三年に比べると、四十七年は大分減っていますし、平成二十四年はもっと減っているということがあります。こういったデータを見て、総理と大臣、どのような感想をお持ちになるでしょうか。

安倍内閣総理大臣犯罪発生率等は、その時代の時代背景なんですが、この段階ではまだ非常に貧しかったんですね、日本は。ですから、そういう中において、子供たちが犯罪に走らざるを得ない、そういう経済的な状況というのがかなりあったわけでありまして、基本的にはそういう分析がなされています。これは、少年犯罪だけではなくて、一般の犯罪も物すごく多いですから、昭和二十年代は。それはそういうことなんです。

あと、先ほど道徳教育についてお話をされたんですが、では、なぜ明治時代に教育勅語を出して、そして修身教育を行ったかといえば、これは、伊藤博文がヨーロッパを回ってくる、その中において、教会の役割が極めて大きいということに気がつくんですね。それは子供たちに、神様が見ている、神と自分の関係において罪を犯してはならない、こういうことだったわけでございます。

日本においては、おてんとうさまが見ているということであったわけでございますが、しかし、教会が果たす役割をどうすればいいかということを考えた中において、教育勅語を当時の陛下が出され、そして修身というものが生まれたということを、その歴史をやはり知る必要があるんですね。

では、日本でどこが果たしているのかということを考えていただきたい、こう思うわけでございますし、そして、私は、子供のときに、さまざまなことを学ぶわけでありますが、うそをついてはいけないということについて、学校で、印象的には、例えばジョージ・ワシントンの桜の木の話もしたりとか、乃木大将の話なんかは私の地元ではよくする話なんですが、そういうことが記憶として残って、そういうことをしてはならないなということが果たして、山内さん、いけないんですか。そういうことをしっかりとやっていくということが私は大切なのかな、こう思っているわけであります。

そして、同時に、犯罪の場合は顕在化しているかどうかということもあるわけでございまして、これが一概に、いわばモラリティーにおいて、それが向上してきたからこういう結果になっているということではなくて、この犯罪の多くは、山内さん、大体、経済的な理由による、少年が強盗に入るとか、そういう犯罪なんですよ、ほとんど。ですから、そういう貧しい時代の出来事だったということも認識しておいていただいた方がいいんだろう、このように思います。

○山内委員明治時代のお話をされましたが、明治時代は学校の進学率も非常に低い、そして、恐らく、宗教的なもののかわりになるものとして、明治時代に天皇陛下を中心にそういったものをつくる必要があったのかもしれませんが、戦後も国家がやるべきなのか。先ほど地方分権の話がありました。地方自治体などでそれぞれの地域の住民の皆さんが話し合って、どういう道徳教育をやろうか、それを決めていく、そういったことの方が今の時代には望ましいのではないかと思います。

私があえて凶悪犯のデータを持ち出したのは、教育再生を訴える人はよく言うんですよ、少年の凶悪犯罪がふえている、だから教育改革が必要だと。そのロジックがおかしいですということを言いたくて、これを持ち出したわけでして、確かに経済的な理由で……(安倍内閣総理大臣「委員長」と呼ぶ)では、どうぞ。

安倍内閣総理大臣山内さん、そういう質問をされるんだったら、どういう議論をされているかと調べてくださいよ。教育再生実行委員会で誰がそれを言っているんですか。誰も言っていないですよ。それは間違えてもらっては困るな。ですから、それはやはり、あなたはファクトを重視するのであれば、ファクトとして挙げてもらいたいと思います。

○山内委員ちょっと今、総理は誤解されている。それは、教育再生実行会議の人が言っているというのではなくて、教育再生を訴えている人はよくこういう議論をしているということを言っているわけです。

○下村国務大臣いや、その論理構成が適切じゃないと思うんです。例えば、私が文科大臣で、凶悪犯少年との連係で発言したことがどこかであるのであれば、それを指摘されるというのはわかります。そもそも、教育再生実行会議でも誰も話していない、総理も私も発言していないという中で、一般論として、どこかであるみたいな形で、あたかも政府が、だから道徳を進めているみたいなロジックを使うこと自体が、これは事実と異なっている質問じゃないですか。

○山内委員下村大臣も、大臣になられる前に、本会議の席で、青少年の凶悪犯罪がふえている、それを直していくためにも教育再生が必要だという文脈のことをおっしゃっているんですよ。そういう分野の人たちがよく使うロジックだからあえて使ったというまででありまして、ですから、何を言いたいかというと、きちんとしたデータに基づく議論をやりましょうということですね。

私、道徳教育を全否定しているわけではないんですけれども、例えば、国が一律でやるのがどうかというのと、あるいは、道徳教育をやるにしても、先ほど大津の例できちんと検証がなされていないということがありましたので、検証した上で、成功例、失敗例、あるいは比較対象として全くやっていない高校、そういうものをきちんと事例研究をした上で、効果のあるものをやっていく、そういう姿勢が必要だと思うんですけれども、この提言を見ていると、かなり前のめりで、まず中央で一律でばんとやろうとしている、そういう印象を受けるわけです。

教育分野の議論は、どちらかというとデータに基づかずに、先に結論ありきで議論がなされているような印象を非常に受けるんですけれども、そういう、例えば、道徳教育に関しては今後どのように評価をやっていくか、あるいはフォローアップをやっていくか、大臣のお考えをぜひ御説明いただきたいと思います。

○下村国務大臣質問についても、やはり事実を踏まえてぜひ論理展開をしていただきたいというふうに思うんですね。教育再生実行会議でも道徳の教科化についての提言はありましたが、今委員が指摘されたような発言を含めて、そういうのは全然ないんですね。

そもそも、補正予算の中で、心のノートを復活するということをいたしました。これはことしの七月から各学校に配られますが、この中で、道徳の教科化に向けて、その心のノートの全面改訂を行う。

そういう意味で、ぜひ心のノートというのをちょっとごらんになっていただきたいと思うんですが、特定の価値観とか国家意識がどこに、そこに記述されているのか。ある意味では、人が人として当たり前に生きていくための学ぶべき規範意識やルールというか、あるいは心の気づきは書かれていると思いますが、委員が危惧されるようなところがどこにあるのか。これはないと思いますし、そういうものを一方的に押しつけるというような考えはそもそもございません。

○山内委員心のノート、中学用と五、六年生用を一応全部見てまいりました。改訂する前のだから今の心のノートですが、その内容を見る限り非常にマイルドな内容で、決してその内容を全否定するつもりはありません。ただ、将来的にそれを拡大して押しつける可能性があるのかなと思うのと同時に、私も心のノートを読みました、中に非常にいいことが書いてありますが、ただ、あのノートを読んで、授業に使ったら即座にいじめがなくなるとか問題が解決するとはとても思えないような内容でした。

実際、教育現場で心のノートは余り使われていなかったから、一旦廃止されたんですね。心のノートを一旦全国に配付するのをやめたのは、たしか自民党の内部の議論でやめたんだと……(下村国務大臣民主党ですよ、民主党政権」と呼ぶ)失礼しました。私が昔、自民党にいたときに、心のノートは税金の無駄遣いだという議論があった覚えがありましたので。

ですが、実際、そのとき調べたのは、余り現場で使われていなかったという実態がありました。だから、使おうというのも一つの方向かもしれませんし、そもそも、国が配る必要が本当にあるのかということを私は申し上げているわけです。

それから、今の心のノートに懸念を持っているわけではなくて、将来の心のノートが非常に偏った内容になったときのことを懸念して、今申し上げているわけです。

○下村国務大臣非常に聡明な山内委員の御質問とちょっと思えない御質問で、私は率直に言ってちょっと驚いているんですが。

まず、心のノートを使っていじめが即刻なくなるなんということを一言も申し上げたことはございません。それは即刻なくなりません。

そもそも、御指摘のように、心のノートそのものがすぐれていい教材だとは我々も思っているわけではありませんので、全面改訂をする必要がある。より効果の上がる、子供たちにとって学ぶべきものとして、冊子として提供していきたいと思っております。

その中で、繰り返すようですけれども、何をもって一方的に国の価値観を与えるというふうに言われているのかということがわかりませんが、そういう視点で教材づくりをしているということではないということを、これは再三再四申し上げているわけでございまして、ぜひ、子供たちの情操の意味でも役に立つ、生きる上で材料となるようなものを教材として考えていきたいと思っています。


○山内委員終わります。ありがとうございました。

公教育ということ

 学校は「公教育」を担っている。だから、税金が投入される。それは、公立、私立を問わない。学校が担う公教育は「公益」のために行われる。公益を追求するための税金投入であり、税金投入が先にあるのではない。
 税金を投入しているから口を出すのは当然という背景に、先に書いたようなことを念頭に置いて発言されることは少ない。税金投入が先にあって、その税金が投入されているから「公教育」だと考えられている。だから、行政がやること、言うことは正当なことであり、それは常に優先され実現されることが「当然」と考えられる。また、税金を支払っている「個人」も同じような考えでいる。
 公教育には誰もが口を出せる。口を出すなではなく、口を出すにしても限度があるということ。それは公教育が利害関係の調整が必要不可欠なものだからだ。
 公教育は公益のために行われる。だから、教育は常に「利害関係の調整」が必要になる。そのために行政が一方的に教育を規定することはできない。教育が利害関係の調整をしないまま誰かの一方だけの主張で行われれば、それは「私益」の追求になる。行政であってもそれは同じこと。
 学習指導要領などがイコール「公益」のためにあるように自明視され、当然視されていることが多く、何の疑問も抱かずにそれを錦の御旗、印籠のごとく振りかざし、それに異を唱えること、それから逸脱することを許さないと言う。それは間違い。学習指導要領は利害関係を調整した結果の「妥協の産物」であり、そこには必ず異論や反論がある。その前提を忘れることはできない。それは教科書も教育内容も教育方法も同じ。
 教育は常に妥協点を探りながら行う必要がある。けれども、最近は特に互いの主張だけを通そうとして、勝った負けたが最優先し、妥協点を探すことなく常にどちらか一方の主張だけを受け入れろと言うことが多い。行政も個人も、右も左も同じ。妥協点を探ることを拒否している。妥協は「負け」であり、だめなことだと考えられている。妥協しなければ利害関係の調整をどうやるというのだろうか。一方だけが強い権力を持ち、それで押し切ることで調整できるというのだろうか。
 公教育は公益のために行われる。税金を支出する行政も、支払う個人もそれをきちんと踏まえて、利害関係の調整を行いながらやるべき。どちらかが正しいとか勝ち負けとかそういうレベルの話にしないことが必要だ。

国定教科書への道

 学習指導要領で教科書の内容を規定し、どの教科書会社の記述もほとんど変わらない。そういう状況を強めていくようだ。それは事実上の国定教科書化。でも国定教科書とはいわない。あくまで「教科書検定」だという。教育への介入はいつもこういうやり方で行われ、自分たちは「強制」していないと逃げる。教科書検定制度は教育への介入を容易にしている。考え直すべき。そうしなければ国定教科書化はさらに進んでいく。