公教育ということ

 学校は「公教育」を担っている。だから、税金が投入される。それは、公立、私立を問わない。学校が担う公教育は「公益」のために行われる。公益を追求するための税金投入であり、税金投入が先にあるのではない。
 税金を投入しているから口を出すのは当然という背景に、先に書いたようなことを念頭に置いて発言されることは少ない。税金投入が先にあって、その税金が投入されているから「公教育」だと考えられている。だから、行政がやること、言うことは正当なことであり、それは常に優先され実現されることが「当然」と考えられる。また、税金を支払っている「個人」も同じような考えでいる。
 公教育には誰もが口を出せる。口を出すなではなく、口を出すにしても限度があるということ。それは公教育が利害関係の調整が必要不可欠なものだからだ。
 公教育は公益のために行われる。だから、教育は常に「利害関係の調整」が必要になる。そのために行政が一方的に教育を規定することはできない。教育が利害関係の調整をしないまま誰かの一方だけの主張で行われれば、それは「私益」の追求になる。行政であってもそれは同じこと。
 学習指導要領などがイコール「公益」のためにあるように自明視され、当然視されていることが多く、何の疑問も抱かずにそれを錦の御旗、印籠のごとく振りかざし、それに異を唱えること、それから逸脱することを許さないと言う。それは間違い。学習指導要領は利害関係を調整した結果の「妥協の産物」であり、そこには必ず異論や反論がある。その前提を忘れることはできない。それは教科書も教育内容も教育方法も同じ。
 教育は常に妥協点を探りながら行う必要がある。けれども、最近は特に互いの主張だけを通そうとして、勝った負けたが最優先し、妥協点を探すことなく常にどちらか一方の主張だけを受け入れろと言うことが多い。行政も個人も、右も左も同じ。妥協点を探ることを拒否している。妥協は「負け」であり、だめなことだと考えられている。妥協しなければ利害関係の調整をどうやるというのだろうか。一方だけが強い権力を持ち、それで押し切ることで調整できるというのだろうか。
 公教育は公益のために行われる。税金を支出する行政も、支払う個人もそれをきちんと踏まえて、利害関係の調整を行いながらやるべき。どちらかが正しいとか勝ち負けとかそういうレベルの話にしないことが必要だ。