教科書がないと教えられないという馬鹿げた発想

【主張】教育再生会議 評価したい徳育の教科化

 徳育の教科化については、一部から異論があったが、土曜授業の活用など「ゆとり教育」見直しの具体策とともに提言の柱になった。

 小中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、思いやりや生き方などを考える貴重な授業のはずだが、進路指導や別の授業に流用されるケースもあった。副読本などを使っておこなっているものの、学校や教師によって授業内容に大きな差がある。

 提言では教科書をつくることにも踏み込み、多様な教材の活用が提案された。教科になり教科書をつくるようになれば、教材の工夫や指導法の研究も進むだろう。

 教師の力量が問われる授業でもある。子供たちはテレビや雑誌、インターネットなどでさまざまな情報に接しており、「生半可なエピソードでは子供たちはなかなか乗ってこない」という声も聞く。子供の心をとらえ考えさせる教材や授業が欠かせない。

 提言では点数による評価はしないとしたが、記述式などの評価は工夫しだいでできる。道徳教育に詳しい昭和女子大の押谷由夫教授(教育学)は「評価を通じて子供たちを見る目が養われる」という。教師の指導力向上にもつながるはずだ。

 子供をめぐる問題や事件の多発で、小中学校では外部講師を招くなど道徳教育に力を入れる傾向が出ている。フリーターやニートなど若者の問題を背景に、茨城県では全県立高で今年度から「道徳」が必修化されるなど徳育重視の動きがすでに始まっている。

 教科書が無ければ十分な教育ができないとしたら、その程度の教師しかいないとしたら、その程度の能力しか教師に求めていないのだとしたら、この国は「指導力不足」で「能力の低い」教師しかいないということだ。
 教科書さえあれば道徳が教えられるとしたら、教科書でしか道徳が教えられないとしたら、そんな「道徳」にどれほどの意味があるだろうか。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070531/1180570636で引用した城丸章夫氏の次のような指摘をどう考えるだろうか。

 このときに、いま、「愛国心」や「道徳教育」をとなえている人たちは何をしてきたか。陰に陽に私たちを圧迫し、どうしても圧迫しきれなくなると、「俺もはじめからそう思っていた」という顔つきをしてきたのである。こういう人たちが、よくもまあ、日本の教師大衆を被告席に据えて、「道徳教育」が不十分だとか、やって来なかったとかと言えるのであるか。その人たちこそ、道徳教育を忘れていたのである。この人たちは、五〇万の現場教師大衆に手をついてその不明をわびるべきである。「道徳教育をやらなかったから不良がふえた」などという失礼な言い草は、そっくりそのまま返上し、原告と被告はその位置を入れかわるべきである。
 いったい、これらの論者は戦後の教師の辛苦した実践をどう見ているのであろうか。直輸入型教育を、ひとつひとつその手で試し、改善し、積み上げてきた努力はゼロに等しいのであろうか。いったいこれらの論者は、日本の教育の歴史から何を学んできているのであろうか。たとえば、戦前の生活修身は当時の文部省修身に対するどのような批判から生まれ、「生活指導」という概念は作文教育のなかから、文部省修身に対するどのような対決から生まれてきたものであろうか。生活指導は、たんなる「方法概念」にすぎないものであろうか。さらに、生活指導の戦後の発展は、日本の現実とのどんな対決のなかで生まれてきたものであろうか。「社会科では道徳教育は弱い」という。しかし、社会科を弱め、終始骨抜きに努力してきたのは誰であったのか。「全教科でやるのはやらないのと同じ」だという。しかし、教科を生活指導から機械的に切り離そうと努力してきたのは誰であったのか。これらの批判がましいことばは、実は放言というべきものである。これは政治的放言にすぎない。

 押谷氏の

「評価を通じて子供たちを見る目が養われる」

というのは、

 提言では点数による評価はしないとしたが、記述式などの評価は工夫しだいでできる。

ということを言っているのだろうか。教師は常に子どもを見て、改善をしていく。それはいつでも、どんな場合でも必要なことであり、押谷氏の言う「評価」はそれを指している。子どもを評価することとは意味が異なる。

 蛇足だが、

 小中学校で週1時間ある「道徳の時間」は、思いやりや生き方などを考える貴重な授業のはずだが、進路指導や別の授業に流用されるケースもあった。

と言いながら、

 フリーターやニートなど若者の問題を背景に、茨城県では全県立高で今年度から「道徳」が必修化されるなど徳育重視の動きがすでに始まっている。

 フリーターやニートの問題は「進路指導」の問題ではないのか。道徳が「進路指導」に流用されることが問題なら、茨城県の取り組みはその流用に当たるのではないか。そもそも、フリーターやニートの問題は道徳でどうにかなる問題じゃない。

 道徳教育というものがこれほど貧困なイメージでしか語られないのはなぜだろうか。そういう貧困なイメージでしか道徳が語られなくなったことが一番の問題なのではないか。