保守派の寝言

【正論】東京大学名誉教授・小堀桂一郎 「教育再生」は国語力養成から

 教育を瀕死(ひんし)の状態に陥れた加害犯人は、遠く遡(さかのぼ)れば日教組の革命準備路線であること衆目の一致する所であるが、近い所では「ゆとり教育」の仕掛人達がその罪の責任を負ふものである。既にこれらの思想の陰湿な犯罪性は完全に見抜かれてゐるのだから、学校教育の現場から一日も早くこの思想を根絶することが、教育再生のための必須の条件である。

 ≪努力こそ人生の質高める≫

 そのための思想的武器として今改めて推奨したいのが福澤諭吉の『学問のすゝめ』といふ古典的教育論である。これは教員養成課程での必読の教科書として採用を要請したい。その心は、児童の知育・徳育の達成度を測るに際しては誰憚(はばか)ることなく競争原理を取入れよ、といふにある。努力する者のみが自分の人生の質を高めることができるのだ、との道理を子供の脳裡に叩き込むこと。それが畢竟(ひっきょう)生徒達の将来の生の充実を約束する指針たり得るのである。

 古典的名著の名を挙げたついでに言ふ。教育には目標の手近なる具体性が実に重要である。「人格の完成」とか「個性の尊重」とか、況(ま)してや「真理と平和の希求」などといふ雲をつかむ様な観念的な謳ひ文句は教育上明らかに有害である。折から10月30日といふ奉戴記念日を迎へて、「教育勅語」の説く如き〈父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し…〉の格率の持つ具体性がどんなに教育的に有効であつたか、痛切に思ひ起される。

 この意味で、人生の価値の最高の範疇(はんちゅう)を説くに際しても、それを「真・善・美」といつた西洋渡りの抽象的で定義困難な観念に求めるのではなく、「正直・仁慈・勇気」といつた具体性を以て示す方が有効である。これは実は「鏡・勾玉(まがたま)・剣」といふ三種の神宝に象徴される日本民族の蒼古の昔からの徳の範疇なのだが、神宝は所詮(いわゆる)象徴なのだから、これらは「正義・柔和・決断」とも、或いは「無私・敬虔(けいけん)・英知」等と適宜幅を持たせて読み替へることができる。いづれにせよこの神宝の教へを奉ずることによつて、我が民族が如何に美しく又内容豊富な歴史を形成することができたか、その事を子供に向つて説くによろしき教材は古典文学の遺産の中に無限に豊富に蔵されてある。

 教育を瀕死の状態に陥れた加害犯人は、日教組でありゆとり教育であるとすることで、それを取り除けばよいという子ども騙しの、短絡的な解決策を提示し、その後で、古典というノスタルジックな世界へと逃げ込むことで現実の問題を抽象化し、そこでもまた短絡的な解決策を提示してみせる。
 こういう寝言のような話では教育の問題は解決しない。小堀氏は、

雲をつかむ様な観念的な謳ひ文句は教育上明らかに有害である。

と主張しながら自らは「雲をつかむ様な観念的な謳ひ文句」を重ねて主張している。小堀氏のこのような主張は、「念力主義」であり現実の問題をきちんと直視したものではない。そういう主張は、教育にとっては悪影響だ。