楽しい授業論について 一つの試論

 先日、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070308/1173284800で、「子どもたちの意欲の低下を、安易に楽しい授業や楽しい学校で食い止めようとか、意欲を向上させようとするのは止めるべきだ。」ということを書いた。そこで、今回は、楽しい授業論を乗り越えるにはどうすればいいかを考えてみたい。
 鈴木さんが先日のエントリーに対してコメントしてくださった。そのコメントの中で、鈴木さんは、

 板倉にしても、昨今流行?の参加型学習にしても、知的楽しみと消費社会的楽しみの同時、あるいは平行追求をしたものですが、その実践が生み出したものは、討論などのの生徒の主体的な議論による授業進行、つまり授業展開場面への生徒参加の促進です。これは、双方の授業理論が、目的とは別にもっていた、授業方法上の特徴です。おかしな話ですが、瓢箪から駒的に登場してきた。
 つまり、「楽しい授業」理論・実践には、目的とは別に、ある種の知的フォーラムが教室の中に立ち上がる瞬間を持ちうるという特徴があって<毎度毎度ではないのが、批判される根拠かも知れません>、そういった共同体主義?的楽しさもあるはずです。

ということを指摘されている。
 先日のエントリーで松下良平氏の論文を引用したが、松下氏は、松下良平「楽しさと背中合わせの非情・悲劇」『現代教育科学』8月号 2004年の中で、

今日の児童中心主義者とアンチ児童中心主義者はいずれも、一定の知識や技を計画的・効果的に習得させるために、他者や事物との出会いをコントロールしようとする。より少ない労力で、より楽しく、より多くの人に当てはまるようなやり方で、他者や事物と出会うことがめざされるのだ。

ということを指摘している。松下氏が批判する楽しい授業論は、教師が、「他者や事物との出会いをコントロールしようとする」授業であり、「より少ない労力で、より楽しく、より多くの人に当てはまるようなやり方で、他者や事物と出会うことがめざされる」ような授業だ。
 これは、子安潤氏が、『[asin:4768479170:title]』で、最近の授業の動向として指摘した「統制主義的な授業」とも重なるものだ。
 ここで、デューイの『[asin:4061596802:title]』から次のような言葉を引用したい。

 ある経験は、即時的には楽しいものであるが、それは怠慢で軽率な態度を助長することにもなる。ところが、このような態度は、さらに引き続き起こってくる経験を変質させる働きをし、その後の経験から与えられるにちがいないものを、得ることができないようにしてしまうのである。

 楽しい授業が、「より少ない労力で、より楽しく、より多くの人に当てはまるようなやり方で、他者や事物と出会うことがめざされる」とするなら、それはデューイが指摘するような問題を抱えることになる。
 佐藤学氏は、「学びを触発し援助すること=子どもの育つ場の保障」『[asin:4487757525:title]』のなかで、

 教室の学びは、対象世界(モノ、教材)との出会いと対話、教室の教師や仲間との出会いと対話、そして自分自身との出会いと対話によって遂行されている。学びはこの三つの次元における対話的実践であり、対象世界との対話(世界づくり)、他者との対話(仲間づくり)、自己との対話(自分づくり)の三つの対話的実践が総合されて遂行されるいとなみである。したがって、学びが豊かに展開されるかどうかは、学びがダイアローグ(対話)の言語によって遂行されるかどうかにかかっている。

と述べている。
 佐藤氏の言うような学びは、鈴木氏の言う「ある種の知的フォーラムが教室の中に立ち上がる」ような授業であると考える。
 本来なら、具体的な事例を示すべきだが、今回は省略したい。佐藤氏の言う、ダイアローグの言語によって遂行される授業例は、佐藤氏の論文の中に示されている。ぜひそちらに目を通していただければありがたい。
 「楽しさと背中合わせの非情・悲劇」のなかで、松下氏は、

 人びとは、学びを通じた(知や技能の向上=世界が広がること=他者との交わり=自己の成長)に深い悦びをおぼえる。だがその悦びは、自己を取り巻く世界や他者と格闘したり、自らの力で知や技をつくりだしたり、古い自分から脱皮したりするときの苦しみや痛みから切り離すことはできない。そこでは〝教師〟に必要なのはまず、学ぶ者が学びの苦しみや辛さから目を背けないように励まし、支えることだ

と述べている。
 読みにくい、脈略の無い文章になったが、ここで言いたかったことは、「より少ない労力で、より楽しく、より多くの人に当てはまるようなやり方で、他者や事物と出会うことがめざされる」ような「楽しい授業」ではなく、子どもたちが、教師から励まされたり、支えられたりしながら「対話」を通じて「学ぶ悦び」を感じるような授業へと変えていくことが必要であるということ。今後、具体的な事例を紹介していければと思う。