必要なのは信頼を獲得すること

国学力テスト:実施不協力を指示 北教組が全21支部

 この中で、

 北教組の小関顕太郎書記長は「国の学力観がころころ変わるなかで、学校間競争を助長する学力テストには疑問がある」と話している。また、日本教職員組合日教組)も「競争や序列化ではなく教育条件の整備につながる調査を求め、弊害を招いた場合は中止を求める」と表明している。

と述べている。では、このような主張が受け入れられるだろうか。多くの人には受け入れられないだろう。教育基本法の改正の議論のときにも書いたし、何度も同じことを書いてきたが、学力低下にしても、いじめの問題にしても、右派・左派とか、そういう立場を超えて不安などが共有されているときに、北教組や日教組のような主張がすんなりと受け入れられることは無い。
 以前、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060921/1158781231で次の様なことを書いた。

 安倍氏が政権についてまず起こることは、教員に対する批判だろう。こんなダメな教員がいる。こんな偏向した教員がいるなどという批判が強まるだろう。そして、安倍氏やその周辺は、その「悪役」である教員を排除し、教育を「正常化」するということで自らを「正義の味方」として演出し、支持を集め、本当の問題から人々の目を背けさせ、教育改革を進めていくだろう。小泉首相の「劇場型政治」がここでも繰り返されることになる。
 しかし、そういう流れを止める手だてはある。その一つは、教員が徹底して子どもと保護者、地域の人たちと真正面から向き合い、話をし、協力していくことだ。教員は改革によって抑圧された悲劇の主人公を演じるのではなく、とにかく、問題に取り組む姿勢を見せ、取り組みを実際に進めていくことだ。そうすることで、安倍氏やその周辺の、教員と子どもや保護者などを対立させるという目論見は外れることになる。
 安倍氏の推進する教育改革はムードが先行する。実証的なことはほとんどなく、ムードだけで進められる。どうもこういうことがあるらしい。こんなことあるはずがない。そういうものが政策立案の「根拠」となる。安倍氏やその周辺の言動を見る限り、実証的にやるという姿勢はほとんど見えない。
 だから、そのムードの盛り上がりを阻止する必要がある。そのためには、繰り返しになるが、教員と子ども、親との連携を強め、目の前にある問題の本質を明らかにし、その問題解決に地道に取り組んでいくことが必要だ。

 日教組が相変わらずスローガンばかりを叫ぶだけなら、それは相手を喜ばせるだけだ。単にスローガンを叫ぶのではなく、相手から提起される問題に一つ一つ真摯に応答していくべきだ。そして、相手の言うことがどれだけ現状から乖離しているか、どれほど皮相的なものかを指摘していくことが必要だ。
 教員に対する不信感は、『世界』2月号で佐久間亜紀氏が指摘している「教育ポピュリズム」によって生み出され、増幅させられている。そして、教育ポピュリストたちは、自分たちの利益を最大化しようとしている。たとえば、

自民・北教組問題PTが初会合

日教組ゆとり教育をかばう毎日社説と北教組

などは、その典型だ。
 こういった教育ポピュリズムに流されないためには、教員が子どもや保護者などの信頼を獲得することが何より重要だ。できないことはきっぱりと断り、できることを地道にやっていく。そして、そういう地道な取り組みとともに、研究者などと協力しながら、実態を冷静に判断してもらうために必要な情報などをきちんと公開し、広めていくことが必要だ。
 今必要なことは信頼を獲得すること。それは、子どもや保護者のご機嫌取りをするのじゃないし、まして政治家のご機嫌取りをするのでもない。教員一人一人が自分で考え、そして行動していくことだ。

派遣すべき人は他にいる

文科省、若手職員に「教員修業」 地方の学校へ派遣

 学校現場の状況を知ってもらおうと、文部科学省は教員免許を持っている職員を教員として地方都市の公立中学校などに派遣し、研修させる方針を固めた。若手職員を対象に人選を始めており、4月から1年間の予定で2、3人を出すという。

 若い官僚を派遣するより、教育再生会議中教審の委員、教育の崩壊だと叫び、いちゃもんをつけている政治家や有識者たちを派遣したほうが良いのではないか。おそらく、子どもたちや教員にとって迷惑この上ないことだと思うが。
 文部科学省が若い官僚を現場に派遣し、現場の実態を把握したとしても、その若い官僚が発言力を持ち、自分が経験したことを政策に生かすには時間がかかる。
 また、教員を経験した教育委員がいることが、教職員組合と馴れ合う原因だと馬鹿げた批判をされている。また、これも同じ批判を受けることになる。
 最近、「教育の責任は国が持つ」と言い、国が何に対しても口出しする仕組みを再構築しようとしている。官僚の派遣もそういうものに利用される可能性がある。
 教育行政に現場の実態を反映することは必要なことだ。そうであるならば、地方の教育委員会にこそ現場の実態を把握する仕組みを作るべきだ。地方の教育委員会は単に文部科学省出先機関、政治家の介入の道具ではない。地方の教育委員会がきちんと自分たちで判断し、必要なことをやっていく。その仕組みを作るべきだ。

教育は停滞前線のなか

教育改革:教委改革「分権に逆行」 規制改革会議、再生会議をけん制

教育改革:政府2会議対立 伊吹文科相、怒る 「閣内不一致だ」「納得できない」

教育改革:政府2会議対立 安倍首相、足元に波乱要素 「国の関与」焦点

 お互いの主張していることには、それぞれの利害が絡んでいるので簡単に結論の出る話ではない。文部科学省や内閣は、自分たちの介入が容易になるように中央集権体制を強化したい。規制改革会議は、教育委員会を廃止することで、公務員を減らし、首長などが直接教育行政を行うことで、教育に市場主義を徹底させたい。
 そして、このような対立と停滞によってイギリス同様、地方教育行政のパートナーシップはズタズタに切り裂かれることになる。
 中教審の上に教育再生会議という屋上屋があり、規制改革会議という離れがある。それが、教育行政を複雑化させている。それらをまとめるものがないから混乱は深まるばかり。
 教育は停滞前線の中にある。それは、教育現場が原因なのではなく、外に原因がある。教育を停滞させているのが自分たち自身であるという意識がないから、いつまでたってもそこから抜け出すことはない。

短絡的な見方だと思う

いじめ事例集「加害者出席停止は“効果”あり」も…文科省

 文部科学省は15日の有識者会議で、いじめに対する教育現場の取り組み事例集を公表した。そのなかで、いじめの加害児童・生徒に対する「出席停止」について成果があったとされる事例が紹介されているが、具体的ないじめの内容については「個人情報保護」の観点から触れていない。このため関係者からは「出席停止適用の参考材料にはできない」と疑問の声も上がっている。

 いじめの加害者を出席停止にしてうまくいった事例があると言うが、それによって教育再生会議の打ち出した方針が間違いではないということにはならない。
 まず、加害者が誰で被害者が誰でとはっきりしない場合、この成功事例はなんら役に立たない。また、加害者や被害者がはっきりしたいじめは、短期的なものや構図を単純化してしまえばあるかもしれない。しかし、そういうものは実際には少ない。また、こうやって成功した事例集を示されても、それを真似ればいいものでもない。
 様々な事例を集めてそれを共有するというのはいいことだと思う。しかし、そういうのが「こうやればこうなる」式の単純化された形で導入されてしまうのは間違っている。
 いじめの問題は簡単に一般化して捉えられるものじゃない。いじめの問題は個別に取り組まないといけないものだ。そして、それは教員などにとっては非常に負担のかかる、難しいことだと思う。しかし、それだからといっていじめ対策がマニュアル化され、それを安易に利用するというようなことになれば、個別の問題というのが置き去りにされる。
 いじめの問題がクローズアップされたが、それによって、いじめの問題が単純な図式で捉えられることにもなっている。規範意識の低下だとか、教員の質の低下だとか、家庭の教育の問題だとか、そういう一部の要因だけを取り出して見せて、これを解決すると良いんだという安直な対策法が幅を利かせている。
 教育再生会議などは、いじめの問題は、規範意識の低下した、質の低下した自分たち(自分たちは規範意識もあり、質も高いと思っている)以外の誰か(教員や家庭など)に責任を押し付けている。さあ、対策を打ち出したからそれを実行しなさい。うまくいかないのはあなたたちの責任だと。
 協力し合うとか、知恵を出し合うというのは、誰かの成功事例を押し付けることではないし、誰かが悪いからだと突き放すことじゃない。文部科学省などは、こうした事例集を配るだけで自己満足するのかもしれないが、現場などと協力して、もっと多様で包括的な施策を講じるべきだ。

パノプティコン化する学校教育

 最近の教育施策の動向は、学校教育のパノプティコン化なのだとふと思った。
 何から何まで「教育的」なもので子どもを囲い、そしてその子どもたちを常に監視する誰かがいる。そして、フーコーが言うようにパノプティコン化した中にいる子どもたちは監視されていることを常に意識し、監視者の意思に支配される。
 子どもをパノプテイコン化した学校教育に押し込めることで、社会は一つの不安から解き放たれる。パノプテイコン化は、子どもが必要としているのではなく、得体の知れない子どもに恐怖を覚える大人たちが必要としている。