今年はこの本から

 今年はこの本を読むことから始まった。それは、
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という本だ。
 安倍内閣が教育改革を行う。そのときに彼らが参考にするのが、
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で紹介したようにサッチャーの教育改革だろう。だから大田氏の本を読んでおこうと思った。それは冷静な目で安倍内閣の教育改革を見るためだ。

今年も最後の日

 今年はほとんどブログが書けなかった。時間を見つけて来年は今年よりもたくさん書いていこうかな。
 さて、来年から教育は試練の時代を迎える。教育について短絡的な意見を言い。それが実行されていく。そういう時代を迎える。そうした時代が来るなら、こちらは粘り強く根拠を問いかけ、その意義を問いかけ、その妥当性や合理性を問いかけていかないといけない。短絡的な意見に短絡的に応えない。それが必要だと思う。
 来年はそうしたことをここで書いていきたい。今年ここを訪れてくださった皆様ありがとうございました。

なんか変だよ泉佐野市

学力向上策を予算に反映 大阪・泉佐野市長が表明

 ある問題があります。それを改善するためには何が必要だろうか。それは原因を探ること。そして、対処すること。それがうまくできなければ問題は解決しない。学力が向上しないと嘆く。改善しろと言われる。けれど、学力は向上しない。なぜか。それは、原因をきちんと探り当て、対処するというプロセスを欠いたまま学力向上の目標を掲げかけ声だけは大きいから。泉佐野市の場合はまさにこれ。
 学力テストをしました。結果はこうでしたと公表した。それで予算をつけるという。では、その学力テストは問題の原因を探るために必要なデータを収集するシステムになっているのだろうか。なっているのだとしたら、それを元にして原因を探り出し、そちらを公表してみたらどうだろう。学力テストをやれという人、点数を公表する人。そういう人は多い。けれど、それが問題の原因を探り出せるシステムになっているかどうかに注目する人は少ない。点数こそすべてみたいになって、改善策を出せと騒ぐだけ。それで問題が解決するはずがない。
 全国学力テストを悉皆調査でやれという意見も、検証するためのシステム作りへの視点を欠いたまま主張される。競争すればいい。点数を公表すればいい。予算の格差をつければいい。それは問題解決につながらない。
 問題を解決するには原因を探る必要がある。そのためのシステムをあらかじめ用意しなければ原因を探れない。それが無いまま点数を公表しても意味は無い。無責任だからこそ安易に点数公表に踏み切る。点数でランク付けしても、それは興味をそそるだけで無責任な責任追及や責任の押しつけ、犯人捜しにつながるだけ。
 改革をしている。改善をしていると思い込んでも問題は解決しない。問題を解決するシステムをきちんと構築することが何より必要。波紋を広げて後はどうにかなるさでは無責任なだけ。

全国学力テストに期待過剰な人たち

国学力テスト 日教組が無能を暴露したくないため骨抜きに

 全国学力テストが悉皆調査になれば、教師や教育委員会の能力が判明するという幻想を抱く期待過剰な人たち。そういうことを期待しても全国学力テストではそんなことはできない。もし、悉皆調査にすべきという主張の根拠がそこにあるならそれは根拠にならない。その理由は、それがでたらめだから。そういう期待過剰をなくさないといけない。

学校の役割

 いじめの問題で語られないのは学校の役割について。いじめられた子どもが学校に通わなくなる。けれど、それは将来大きな不利益を子どもにもたらすことになる。逆にいじめた子どもを学校から排除する。それもまた子どもの不利益になる。学校はそういう子どもを安易に大量に生み出せるのだろうか。学校の役割は子どもに不利益をもたらさないようにすることではないのか。
 学校が問題を抱え込みすぎるという指摘がある。確かにそうだし、それによって問題がさらに深刻化している面もある。けれど、学校が問題を抱え込むことをしなくなれば、その問題は他の誰か、他のどこかが抱え込むことになる。学校が抱え込みすぎている問題を誰がどこが抱えるのか。そういうことをもっと考え、議論すべきだろうと思う。
 いじめの問題で言うと、被害者が学校に通わなくなる、加害者を外に放り出す、つまり、学校が抱え込んでいる問題を放り出すこと。それを主張するときに同時に誰がどこで問題を抱えるのか。それが子どものに不利益をもたらさないようにするにはどうするべきかも主張すべきだろうと思う。

いじめの問題について少しだけ

子どもたちに正しく「競争」を体験させ教えないといじめもなくならない

 この記事を読みながら考えたことと、いじめの問題について少し書いておきたい。
 学校に限らないのだけど「正しい競争」というものは存在しないのではないかと思う。「ルール」は誰が作るのか、それがなぜ妥当であり、公正であるのか。そういうことを問い詰めていけば「正しい競争」というものこそ理想論であり幻想ではないかと思う。そう言ってしまうと話が終わるのだけど、競争の排除は単に理想論や幻想という風に簡単に片付けられるとそれは違うよと思う。
 例えば、全国学力テストで「競争」をということを言われると、それは違うよと思う。以前にも書いたけど、競争が必要なところはやればいいし、競争の必要のないところではやらなくていいと思う。教育の問題は「競争」では解決しないところがある。それを考えておくべきだと思う。
 いじめの問題について考えるとき、「排除」と「寛容」ということを考える。いじめが「差異」を原因として起こることがある。その差異を「寛容」できずに「排除」することが目的になることがある。
 容姿、言葉、行動など色々なところで「差異」がある。学校はそういう「差異」を大きな差異のように感じさせる所だ。まとまり、一体感。そういうものを強調すればするほどその傾向は強まる。差異はそういうものを乱し、阻害するものとなり、「排除」すべきものとなることが多い。だからこそ差異を「寛容」できる、することを学校ではやるべきだし、教えるべきだと思う。最初の話との関連で言うと、競争が一定のルールの下に行われても、それが「差異」を大きく見せてしまう可能性がある。そういうとき競争は排除されるべきものでもある。
 そして、いじめの問題が複雑になるのは「相互批判」と「相互不信」が背景にあるように思う。無責任だという言葉は言えば簡単だけれども、それは単に相手を批判するだけで自分の責任を問わないし、相手への不信感だけでなく、相手の不信感を強めるだけだ。責任の所在は色々なところにある。問題も色々なところにある。それを認識して「相互批判」や「相互不信」で終わらせないことを優先すべき。
 蛇足になるかもしれないけれど、マスコミは今回の問題に限らず、いじめの問題を色々と解説し、学校などを批判したがる。けれど、彼らは「相互批判」と「相互不信」で終わらせないことを考えていない。そういうマスコミの論調には同調しない。そういうものから一歩引いて考えてみるべきだと思う。

井の中の蛙は誰か

井の中の蛙」の危険

 この記事にあるような話をたまに見聞きする。井の中の蛙なのはこの記事を書いた記者ではないのか。日本が経済発展をしていた頃、アメリカでは日本の経済発展の背景に日本の教育があるとし、日本の教育を手本に教育改革を進めた。この記者はその頃のアメリカの人たちと同じ視点で中国や韓国、東南アジアの国々の教育を見ている。それが井の中の蛙なのだと言いたい。
 日本は経済発展とともに教育の量的拡大は進んできた。多くの子どもが高校へ通うようになり。大学全入といわれるようになった。しかし、今の日本の教育はそこから先の姿を描ききっていない。それは、日本の以前の姿を他国に重なり合わせ、そこに戻りたい、戻すべきと考える井の中の蛙が教育改革を行おうとしているからだ。
 日本がこれから描く教育像は、日本の過去の姿ではなく、手本のない新しい姿を描き出さなければならない。そのためには井の中の蛙ではだめだ。見つめ直すべきなのは井の中の蛙が描こうとしている教育像だ。