いじめの問題について少しだけ

子どもたちに正しく「競争」を体験させ教えないといじめもなくならない

 この記事を読みながら考えたことと、いじめの問題について少し書いておきたい。
 学校に限らないのだけど「正しい競争」というものは存在しないのではないかと思う。「ルール」は誰が作るのか、それがなぜ妥当であり、公正であるのか。そういうことを問い詰めていけば「正しい競争」というものこそ理想論であり幻想ではないかと思う。そう言ってしまうと話が終わるのだけど、競争の排除は単に理想論や幻想という風に簡単に片付けられるとそれは違うよと思う。
 例えば、全国学力テストで「競争」をということを言われると、それは違うよと思う。以前にも書いたけど、競争が必要なところはやればいいし、競争の必要のないところではやらなくていいと思う。教育の問題は「競争」では解決しないところがある。それを考えておくべきだと思う。
 いじめの問題について考えるとき、「排除」と「寛容」ということを考える。いじめが「差異」を原因として起こることがある。その差異を「寛容」できずに「排除」することが目的になることがある。
 容姿、言葉、行動など色々なところで「差異」がある。学校はそういう「差異」を大きな差異のように感じさせる所だ。まとまり、一体感。そういうものを強調すればするほどその傾向は強まる。差異はそういうものを乱し、阻害するものとなり、「排除」すべきものとなることが多い。だからこそ差異を「寛容」できる、することを学校ではやるべきだし、教えるべきだと思う。最初の話との関連で言うと、競争が一定のルールの下に行われても、それが「差異」を大きく見せてしまう可能性がある。そういうとき競争は排除されるべきものでもある。
 そして、いじめの問題が複雑になるのは「相互批判」と「相互不信」が背景にあるように思う。無責任だという言葉は言えば簡単だけれども、それは単に相手を批判するだけで自分の責任を問わないし、相手への不信感だけでなく、相手の不信感を強めるだけだ。責任の所在は色々なところにある。問題も色々なところにある。それを認識して「相互批判」や「相互不信」で終わらせないことを優先すべき。
 蛇足になるかもしれないけれど、マスコミは今回の問題に限らず、いじめの問題を色々と解説し、学校などを批判したがる。けれど、彼らは「相互批判」と「相互不信」で終わらせないことを考えていない。そういうマスコミの論調には同調しない。そういうものから一歩引いて考えてみるべきだと思う。