教育改革に必要なのは慎重さと合理的な判断だと思う(再掲)

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061110/1163087610で紹介したことがあるが、藤田英典氏は、

 (前略)それから今、先程ご指摘ありましたように、この問題は1980年代からあるいはもっと遡れば、公選制の教育委員会制度が任命制に変わったときからずっと問題になってきてたことだと思います。

 そして、改革の議論は、特に1980年代以降盛んになって、この教育委員会制度をどうするかということを、繰り返し提案がなされており、そしてまた現に様々な改革がなされてきておりますけれども、未だに事態は改善していないと言われてるわけです。

 同様のことは、いじめ、校内暴力、不登校、学級崩壊、少年犯罪も、1980年代から一貫して改革の理由として言われ続けてきました。先程、町村委員の方から、私の考えについて異論を発言されましたけれども、その点について25年間、これが問題だと言って改革をし続けて、未だにそれが最大の問題だ。だから、改革しなければいけないとするならば、これまでの25年間の改革、政策は何をしてきたのか。成功したのかどうか。そのことを今一度考える必要があると思います。

 改革のための改革のほうが批判のための批判、反対のための批判よりはるかに危険です。もちろん、対立的に暴力的に反対するなんていうことは論外でありますし、そういうことは許されるべきではありませんが、反対しても実害はありません。しかし、改革は結果が伴いますから必ず改悪であれば実害が伴います。その点を十分に考えて教育基本法の問題についても検討していただければと思います。

と述べている。教育改革に限ったことではないけれど、常に良いものにしていこう、いい方向に向けていこうとするのはいいが、そこに必要なのは慎重さと合理的な判断なのだと思う。
 ここで何度も取り上げている全国学力テストをまた例として考えてみたい。
 http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/kariya/05_1.html苅谷剛彦氏は、「悉皆調査」について取り上げている。その中で指摘されているのは、「一般的に、全員が参加する、いわゆる悉皆調査のほうが、調査対象者の数が多い分だけ、正確な情報を得られると思われがちである」が、「全国的な学力調査の実施方法等に関する専門家検討会議(以下、検討会議)」で次のような指摘がなされていることを紹介する。

 客観的なデータを取ることが重要である。悉皆調査で一番懸念されることは、成績の悪い子どもを休ませたり、学力調査の結果において高いパフォーマンスを得るための特別な努力をすることで、データが変質してしまうことである。取ったデータがすでに変質してしまっていれば、それをどれだけ分析しても意味がない。
 例えば、教育課程実施状況調査やアメリカの全国学力調査では、複数種類の問題冊子を使うなど、現場に直接的な影響を与えないで、客観的なデータを取るための工夫をしている。悉皆調査であっても、問題冊子をブロック別にすることや、サンプリングを工夫するなど、技術的な点で工夫できないか。
  変質してしまったデータをとってはならないことと、一方で、きめ細やかなデータを取り、きちんと教育の現場にフィードバックすることが社会の要請に応える意味で重要である。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/031/gijigaiyou/06020309.htm

 そして、苅谷氏は、

 もしも、全国学力調査の目的が、「国の責務として果たすべき義務教育の機会均等や一定以上の教育水準が確保されているかを把握し、教育の成果と課題などの結果を検証する」(「全国的な学力調査の具体的な実施方法等について(報告)」)ことにあるとすれば、データが変質してしまう可能性をもった全員参加というデータ収集の方法は、実態把握をゆがめてしまう。とりわけ、「国は、義務教育における機会均等や全国的な教育水準の維持向上の観点から、すべての児童生徒の学習到達度を把握するための全国的な学力調査を実施することにより、各地域等における教育水準の達成状況をきめ細かく適切に把握する必要がある」(同報告)というのであれば、なおさらのことである。たとえ一般には公表されない――その危険性が全くないわけではないが――としても、学校ごとのテスト結果が教育委員会などに把握されるおそれを抱いた学校が、前述の委員が懸念するような行動を取れば、とくに学習に困難を来している生徒たちの情報は正確さを欠いたものになってしまうだろう。そうなれば、このテストの目的である、「教育の成果と課題などの結果を検証する」上での判断を読み誤ることにもなりかねない。

というように指摘する。
 苅谷氏が指摘しているように、全国学力テストが「実態を把握する」ために行われるとしたら、そのために「悉皆調査」を選択することは「合理的な判断」であったと言えるだろうか。
 もし、検討会議が本当に全国学力テストによって実態を把握したいと考え、全国学力テストを今後も継続させようと考えるなら、「悉皆調査」よりも、収集するデータの信頼性が高く、より広い範囲をカバーできるhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070509/1178642759で紹介したようなPISAやNAEPと同様のものを選択するのではないか。

 生徒にとっても負担軽減になり、予算も少なくてすむ。しかも、全国すべての児童生徒たちを、同じ物差しで序列づける危険性を回避できる。このようなテストの方法があるのに、それを用いない。4月24日に実施される日本の全国学力テストは、こうしたテスト技術・テスト研究とは無縁の、旧態依然とした「全国学テ」の方法を踏襲している、と言わざるを得ないだろう。

と苅谷氏が指摘するように、先日実施された全国学力テストは先行事例やこれまでの成果をきちんと検討し、取り入れたものではない。それは、たとえ検討開始から実施まで時間が限られていたからという理由があるとしても、検討か会議は「合理的な判断」をしたという評価を与えられることはないだろう。
 確かに教育の実態を把握することは必要なことだし、改善すべき問題は山積みにされている。しかし、そうだとしても、全国学力テストを絶対に今この時期に行わなければいけないということにはならない。
 何度も書いているように、各自治体ごとに学力テストが実施され、その結果を分析し、対策を検討し、対策を講じてきた。また、文部科学省でも教育課程実施状況調査を行い、その結果を分析し、対策を検討し、公表している。
 そうであるなら、全国学力テストについては時間をかけてでも、検討し、試行錯誤を繰り返し、PISAやNAEPの水準に近いものが実施可能になった段階で、実施しても差し支えない。
 また、地方で実施されている学力テスト、教育課程実施状況調査も、全国学力テストの研究・開発とリンクさせながら、改善を施していくということを同時に行う。そうすることで、全国学力テストの実施まで、切れ目なく教育の実態を学力テストを用いて把握するということはできる。
 イギリスもアメリカでも、様々な問題は指摘されているが、学力テストによる実態把握は行われている。イギリスやアメリカと日本との大きな違いは、学力テストの開発や改善にきちんと多くの資源を投入してきたし、し続けているということだ。そうすることで、学力テストは教育政策を検討したり、検証したりする上で信頼感のある根拠として用いられている。日本では、そういうことをやっているだろうか。
 よく「やってみなければ」とか「まずは実態を把握すること」などと言われるが、やってみる前に十分な検討を重ねたり、試行錯誤を繰り返す慎重さが必要だし、試行錯誤の結果合理的な判断を下していくことが必要なのではないか。慎重さや合理的な判断を欠いた教育改革は、「改革のための改革」であり、「改革は結果が伴いますから必ず改悪であれば実害が伴」なうことになる。だからこそ、慎重さと合理的な判断が教育改革では何よりも優先されるべきことではないか。