自分たちこそ当事者であるということ(再掲)

国学力テスト:不参加の犬山市 親たち不満の声も 市教委、来年度も続行? /愛知

 全国の小学6年生と中学3年生233万人が24日、一斉に臨んだ学力テスト。唯一、自治体として不参加を決めた犬山市では、子どもたちはいつも通りの学校の1日を終えた。不参加を評価する声がある一方で、子どもを学習塾に通わせる親などからは、「親の意見を聞かず、不参加を決めるのはおかしい」「学力テストを受ける権利が奪われた」などの市教委への不満も。その市教委は同日夕、定例教育委員会を開会。「学力テストは、目的がはっきりしない。意味づけを見極める必要がある」として、来年度も不参加とすることに含みを持たせた。

 これまで、
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070424/1177388929
http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070420/1177081823
で当事者として自分ができること、出来ないことが何かをきちんと明確にすること、全国学力テストに対しても当事者として判断すべきということを書いた。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070425/1177431247で書いたが、犬山市教委の判断については、きちんと説明が必要だし、議論することが必要だ。市教委は当然そういう機会を設けなければならないし、保護者は当事者としてそこではっきりと意見を言うべき。
 しかし、一つ勘違いしてはいけないことがある。特に最近そういう傾向が強まっているが、学校や教育行政はサービスを提供する側、保護者はサービスを消費する側という一見すると分かりやすい構図を持ち出して、消費者としての保護者はサービスを提供する側よりも上であるというような意識が強まっていることだ。
 その構図では、確かに保護者の意見が反映されやすいように見える。しかし、それは全く逆で、保護者の立場は逆に低下している。
 その理由は簡単。保護者の出す意見を選択するのはサービスを提供する側である行政や学校だ。行政や学校がどういう選択をするか、その過程に保護者は関わらない。だから、不満だけが募っていく。
 また、保護者対学校(教師)というような対立構造が政治的に創出されることで、互いに意見を言うこともなく、相互不信だけが深まり、不満が募るという構造に陥っている。
 イギリスの労働党政権は、「ステイクホルダー」間の「パートナーシップ」の形成ということを主張している。
 これは、学校や保護者、地域など教育の「ステイクホルダー」が互いに権利の行使と責務を果たしながら、「パートナーシップ」を形成していくことを目指すものだ。
 日本においては、保護者は大内裕和氏が言うように「管理や統制に素直に従うか、教育サービスを受け取ることに専念する消費者になるしかない。」そして、今進められている教育改革ではそういう立場から抜け出すことは出来ない。
 「学校や行政は自分たちの意見を聞かない。」というのではなく、自分たちが「当事者」として教育に関わり、権利の行使と責務が果たせるように「自分たちで」変えていくこと。
 そういう取り組みは、改正前の教育基本法でも、改正されようとしている現行の法律でもできることがいくらでもある。しかし、どちらも法律が改正されようとしているなら、当事者として自分たちが教育に関われるようになっているのかどうかを確認し、もし、明記されていなければ法律にきちんと明記させることも必要になる。
 当事者として関わるということは、何でも駆り出されたり、何でも出て行くということではない。よく、責務を果たせというとそういう方向に向かう。当事者として関わるというのは、自分たちの役割を互いに確認し、その中で責務を果たすということ。役割をあいまいにすることでもなければ、どこかに役割を集中させることでもない。また、互いの立場が上下で固定されることでもない。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060813/1155484412で引用したデイヴィッド・F・ラバリーの論文の中でラバリーは次のように指摘する。

 教育における公益は、個々の消費者の私益の総体には還元できない。というのは、私益を追求する個人を全部集めても、誰も他人の子どもの教育を省みようとすることにはならないからである。学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒されているなら、すなわち、よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供するといった圧力に晒されているなら、そのときは、教育の広範な公的便益が浸食されることになろう。こうした消費者優先の学校システムは、教育経験を著しく階層化し、力のある消費者に対して、システムからの利益を勝ち取る機会を拡大することになるであろう。それは、教育システムを、勝者と敗者を作り出す選別・選抜メカニズムとしての性質の強いものにしていく。しかも、この場合、敗者がいるからこそ、勝つことに意味があるということになる。

 今、教育に対してラバリーが言うように「私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供する」ということが強く求められている。そういう面だけが強調されることで、「教育の広範な公的便益」については忘れられ、「教育の広範な公的便益」とは何かと問われることもない。
 そういう状況の中で、教育の場において互いの利益がぶつかったとき、きちんと議論し、調整するということが困難になっている。
 全国学力テストの話に戻すなら、個々の保護者が学力テストについてどういう考えを持つのか、その上でどうするのかという議論を積み上げていく。その結果であったなら、不満だけが募ることにはならなかった。全国学力テストは上からやってきた。そこに、当事者が関わる機会はなかった。
 これからも文部科学省は全国学力テストを続けていく予定だという。犬山市教委は不参加の意向であるという。そこには依然として当事者の介在はない。そういう状況が続けば、不満は一向に解消されない。
 まず必要なことは、学校や保護者、地域などが当事者として意見を表明したり、議論する場と機会を常設化、常態化させること。保護者は消費者という立場からも意識からも脱却することだ。そういうところから変えていくしかない。