当事者であること(再掲)

 先日、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070419/1176994119で、大内裕和氏の「教育は誰のものなのか 教育基本法「改正」問題のアリーナ」という論文の一部を引用した。
 大内氏は、

 現在教育に関わる多くの人々にとって、教育基本法の中心的理念である〈教育の権利〉というものを意識することが困難になっている

と指摘している。その背景として、

 それには歴史的な背景がある。一九五〇年代から政府の教育政策の転換によって、教育委員の公選制は任命制へと変わり、学習指導要領の拘束力も強化された。地域住民が自らが希望や意志を、教育委員会を通じて学校教育に反映させることは困難となり、教科書を含めて教育内容への文部省による中央集権的統制は強くなった。戦後における教育の民主化によって獲得された国民の諸権利は、次々と奪われていったのである。一九五〇年代以降、高校や大学への進学率は急上昇し、多くの人々にとって進学への機会は拡大した。しかしそのことは、人々が〈教育の権利〉を獲得したことを意味しない。むしろ〈教育の権利〉が人々の意識から薄れていくなかでの進学卒の急上昇が、教育を経済的、社会的地位獲得のための手段へと特化し、強固な学歴社会を生み出したといえるだろう。

と指摘している。先日、http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070417/1176739603で子どもではなく、保護者が原告になるべきであったと書いた。その理由は、保護者のもつ「教育権」で、教育施策のためという名分で不当な調査が行われる場合、拒否できるのではないかと考えたからだ。また、あの提訴によって、保護者が持つ教育権で不当な調査に対して拒否できるかどうかということを明確にするいい機会だと考えるからだ。
 例えば、学力テスト拒否というようなことを表明した保護者に対して、子どもの教育権(本来、学習権と呼ぶべきかもしれないが)を侵害しているというような批判がされたとき、同様に保護者が持つ教育権の侵害という可能性も追求されるべきだ。
 しかし、そういう議論にはならない。それは、教育権が剥奪された状態があるからだ。大内氏は、

 教育の権利が剥奪された状態が長く続けば、管理や統制に素直に従うか、教育サービスを受け取ることに専念する消費者になるしかない。どちらにも強固な「受動性」が意識を貫いている。教育の管理主義と学歴主義は、多くの人々に「受動的」であることを強制したのである。教育の権利を奪われ、「受動的」であることに慣らされたことによって、多くの人々は教育の権利を自らがもっているということを想像することができなくなってしまっている。権利はそれを行使することによってしか守れないとよくいわれるが、「権利が存在する」ということを意識することすらできない状況が生まれている

と指摘している。
 もし、保護者が教育についてこれまで「当事者」であることを意識し、「当事者」として関わってきたならば、保護者は自分の持っている「教育権」について強く意識してきたはずだ。しかし、保護者は「教育サービスを受け取ることに専念する消費者」という立場に追いやられ、保護者自身もそういう立場を受け入れてきた。そのために、全国学力テストという教育サービスを受け取るだけの保護者には、自分の権利が侵害されているか、いないかというようなことは考えもつかない。
 保護者の持つ教育権について追求するのは、「当事者」として教育に関わるために必要なことだ。学力テストが子どもだけに関わるものではない。学力テストを通して家庭の状況などが問題になったとき、その問題を解消するために講じられる施策は、保護者にも関わってくる。つまり、学力テストは保護者とも密接に関わっている。だから、保護者は当事者として、教育権を持つものとして学力テストへの賛否を捉えるべきだ。あの提訴は愚かなこととして批判されるようなものではない。
 教育に「当事者として関わる」ということは、教育再生会議中教審などの審議をただ待つのではなく、自分たちの持つ権利をきちんと行使して、自分たちで議論し、自分たちに必要な教育を行うということだ。 政府や民主党が提出し、議論されている教育関連3法案をよく見てほしい。保護者や子どもの持つ教育権についてどのように規定され、その権利行使のための仕組みがきちんと盛り込まれているかどうかを。
 当事者として当然持つべき権利が剥奪され、権利の行使が妨げられるようなものは当事者として否定すべきだ。これまで、そういうことをやってこなかった。もし、今後もそういうことをしないまま放置するなら、それは権利を自ら放棄するということだ。
 人の議論を待つのではなく、当事者として自分たちで教育を良い方向へ向かわせること。もし、それができない状態なのであれば、できるように法律の改正など必要な改革を行うこと。
 大内氏が言うように、

 「教育は私たちのものだ」という〈教育の権利〉と〈自治の意識〉を獲得していくこと、それが今ほど望まれている時はない。