「公教育」という言葉の意味から考えてみる

【主張】君が代訴訟 徹底指導を妨げる判決だ

国旗国歌法は国旗を日の丸、国歌を君が代と規定し、学習指導要領で教員の国旗・国歌の指導義務が定められている。そうした法律に根拠を求めるまでもなく、国旗・国歌の指導は公教育の重要な役割の一つである。

 あえて「公教育」という言葉を強調した。ここで使われている「公教育」という言葉の意味を考えると,この問題のおかしな一面が浮き彫りにできると思うからだ。
 よく,「嫌なら私立学校の教師に云々」という主張がある。おそらく,http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/opinion/121572/tb/などでいくつか見かけることができると思う。けれども,それは「公教育」という言葉を誤解しているから出てくる。
 「国旗・国歌の指導は公教育の重要な役割の一つである。」とするなら,「公教育」を行う私立学校はその埒外には置けない。私立学校の教師に対しても「国旗・国歌の指導は公教育の重要な役割の一つである。」という主張がなされなければならない。
 しかし,私立学校を埒外に置くことで不起立が「許されない教師」「許される教師」をつくる。そして公立学校の教師は「許されない教師」であると強調するために「公教育」という言葉が出てくる。そして,その「公」の意味をきちんと吟味せずに「公」と「私」とが持ち出されてくる。
 「国旗・国歌の指導は公教育の重要な役割の一つである。」ならば「公立学校の教師」だけが「許されない教師」とし,公立学校の教師だけが国旗・国歌の指導を強制されたり,重い処分が課されるのはおかしい。
 国旗・国歌の指導の問題を考えるときに,よく私企業なら云々ということもよく言われるけれども,その私企業の論理を公立学校と私立学校とを区別する論理にも持ち込んで語るのは間違っている。
 「公教育」というときの「公」というのは何か。そこから議論を始めないで国旗・国歌の指導の問題を考えることはできない。だからこそ,「許される教師」「許されない教師」という論理のおかしさにも気づいてもらいたい。そして「公教育」や「公」の意味を考えるべきなのは,むしろそういう「許される教師」「許されない教師」を作り,「許されない教師」の責任だけを重く捉えようとする人たちであることも指摘しておきたい。