「ゆとり教育」の反省って何だ?

新学習指導要領 「ゆとり教育」の反省を生かせ(11月6日付・読売社説)

 次の学習指導要領についての中間まとめは、「ゆとり教育」が行き詰まった原因を自ら分析し、「授業時数が十分でなかった」などと反省点を列挙する異例の内容だ。

 確かに様々な反省点が列挙されてはいる。けれども,

 一方で、理念の実現のためにとってきた具体的手だてについては、不十分だったと明確に認めている。

 「詰め込み」教育の反省として、教える内容を3割減らし、授業時間を1割削った。総合学習の時間を新設した。

 だが、目指した「ゆとり」は「ゆるみ」を生んだ。かえって基礎知識の習得や思考力・表現力の育成を妨げる結果となり、保護者の「教育不信」を招いた。

 その反省を踏まえ、総合学習を減らし、主要教科の授業時間を今より1割以上増やすことにした。中でも、小学校の算数と理科は16%増、中学の理科と英語は33%増となる。「脱ゆとり」の姿勢が数字上も鮮明になった。

「中間まとめ」に示されたこれらの対策はいったいどこに根拠があるのか。
 よく,「ゆとり教育」は最初から失敗することが分かっていたとか,授業時数が減れば学力が低下するのは当たり前だとか,常識でも真理でもないことが当たり前のこと当然のことであるかのように語られている。では,それが当たり前であるとか,当然であると言える根拠は何か。こうしたことがきちんと検証されることなく,何となく失敗したみたいだから逆のことをやりましょうとなっている。教育政策の安易な方針転換という体質だけは変わることなく,批判されることなく残っている。
 よく,「ゆとり教育」は「「詰め込み」教育の反省として」実施されたのだと言われる。確かにそういう側面はあった。しかし,それは一側面に過ぎない。それが「ゆとり教育」のすべてではない。
 「ゆとり教育」は新自由主義の路線に沿うものとして経済界等からの要望もあり,臨教審答申にはそれが多大な影響を与えている。そうした側面はなぜか忘れ去られ,経済界も素知らぬ顔をして「ゆとり教育」を批判してきた。
 「ゆとり教育」の反省というならば,教育改革における新自由主義的な側面も当然対象としなければならない。もし,新自由主義の側面のみが免罪されるとしたらその根拠をきちんと示さなければならない。

 新しい指導要領は、早くて2011年度からの実施となる。「ゆとり」と決別する一方で、「生きる力」は継承するという曖昧(あいまい)な折衷策に、教育現場の十分な理解が得られるだろうか。

 国は具体的な指導法などを示していくことが必要だろう。

 これまでもこれからも,教育行政は現場の理解など気にしていない。現場が理解しないのは現場に原因があると考えているし,一部マスコミもそうした主張をしてきたし,今もそうしている。
 それに,「国は具体的な指導法などを示していくことが必要」というが,なぜ「現場が考え,現場が実施する」ということを主張しないのか。国がそれをきちんと支援する方へとなぜ向かわせないのか。

「学校側、自分で考える習慣乏しい」教育問題で町村長官

 先日,町村官房長官は,

「教科横断的テーマを考えてみようということなのに、学校現場では自分の頭で考える習慣が誠に乏しく、やり方が分からない」

と発言したそうだ。現場は自分で考えなくても良い。そうしたメッセージを発し続け,現場が自ら考え,行動しようとしてもそれを阻害してきたのはどこの誰か。国が具体的なものを示さなければならないような現状を作り出したのは誰か。
 教育改革を本当に根付かせようとするなら,現場が考え,現場が行うようにすること。それをきちんと支援することが必要だ。総合的な学習の時間はその契機となるはずだった。しかし,実際にはそんなことにはならなかった。国は,現場が考え,行動することを支援しなかったからだ。
 この国の教育行政は,「ゆとり教育」から何を学んだのか。何を教訓としているのか。この国の教育行政は「ゆとり教育」から何も学んでいないし,教訓を生かそうともしていない。「中間まとめ」に示された「反省点」は,自分たちのことを棚上げにしたものであり,そんなものを反省というのは間違っている。いつまでこうしたことを続けるのか。