教育の対象者はただの容器ではない

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以下,本書に収められている新井郁男氏のコラムより引用。

 教育はこれまでさまざまに定義されてきたが,その一つとして有名なものは,社会学の祖エミール・デュルケムによる,方法的社会化という定義であろう。教育とは社会化を意図的・計画的・組織的に行うことだというわけである。デュルケムによる教育の定義には,あと二つ注目しておく点がある。その一つは,成人世代が社会生活に未熟な世代に対して及ぼす作用が教育だという点であり,もう一つは,将来参加するであろうところの政治社会,あるいは将来所属するであろう社会集団の要求する状態を子どものなかに出現させることだという点である。
 以上のような定義は,教育とは,子どもに,子どもの外に客観的に存在している知識や価値を一方的に注入することだという考え方に立っている。
 デュルケムは,「社会的事実」という彼特有の概念を基礎にして教育を定義づけたのであるが,彼は『社会学的方法の基準』において,それを「固定化されていると否とを問わず個人に対して外在し,個人に拘束を及ぼし,個人ではなく,何らかの集団を基体とし,個人的な表現物から独立しているいっさいの行動,思考,感覚の様式」としている。彼のいう「社会的事実」とは,個々の個人にとって先行的に(個人が存在しているいないにかかわらず)存在し,個々人に与えられるもので,物のように客観的に対象化され,観察されねばならないものである。そこには社会学を自然科学のように,事象を客観的に実証する学問にしたいという願いがあったといってよいであろう。
 このような考え方にしたがうならば,子どものなかに,意図されていた行動・思考・感覚などが形成されない場合には,方法が適切でなかったか,子どもの側に問題があったか,どちらかであるということになる。このような教育概念のもとでは,子どもは一方的に外在する行動・思考・感覚に拘束される客体としてとらえられることになる。
 しかし,教育の対象者は教育する者が注入しようとする知識や価値をただ受けとる容器ではない。たとえ教育に期待されている役割がそのようなものであったとしても,現実の教育過程はそのように一方的ではありえない。教師が生徒にある知識を教えようとしても,生徒のほうはそれをそのまま鵜呑みにするとは限らない。いかに教師の教え方がすぐれていても,生徒が学習する知識の程度,内容,意味などは一様ではない。これは教育が生徒を拘束する一方的な関係なのではなく,教師と生徒の間,生徒と生徒の間のさまざまな相互作用であるからである。教育は社会過程なのである。
 学校においては,教える者と教えられる者は,それぞれの地位に対応した役割を果たすことが期待されている。相互作用は,発問‐応答というように,表面的には様式化されている。生徒のすべてが教師の「教える」という行為の意図を承認し,その意図通りに「学ぶ」という行為に専念しようとしている場合には,この様式は安定した持続的な社会関係となる。しかし,現実はそう甘くはない。教師の「教える」という行為は一つであっても,「学ぶ」という生徒の行為は生徒の数だけある。教師と生徒のお互いの承認のしかたや役割の期待の内容は決して一様ではなく,個々の教師対生徒という個別的なものである。また,学級を構成する生徒は個々ばらばらに存在しているアトムなのではなく,他の生徒との間に複雑な社会関係をとり結んでいる。
 教育が方法的社会化であるというのは,あくまでも教育する側の意図なのであって,教育を受ける者がその意図通りに教えられようとしている知識を内面化するとは限らない。なぜならば,教育を受ける者がその価値付与過程から読みとる意味やそれらに主観的に与えられる意味が一様ではないからである。人間の使うあらゆる記号は意味をもち,また,生活環境を構成するあらゆる事物や事象のなかに,人間は意味を読みとり,主観的な意味を与える。人間にとってあらゆる対象は,主観的に解釈された意味をもっている。あらゆるものが象徴性をもっている。高級な車がステイタスのシンボルであるのと同じように,知識もそれを修得していることが,仕事のうえでの実用性はなくても,知識人としてのシンボルだと考えて修得しようとする者もいれば,実用性のみを考える者もいるであろう。
 人間のすべての行為は対象との象徴的意味のやりとりだともいえる。このような考え方が象徴的相互作用ともいわれるゆえんである。教育の過程は,この意味で,生徒の側からとらえるならば,学習の過程ということになる。
 学校を学習社会に転換するためには,以上の点を踏まえなければならないであろう。