教育と称して行われるものは

 松下良平「楽しさと背中合わせの非情・悲劇」『現代教育科学』2004年8月号明治図書からの引用。

 近代学校が登場するはるか以前から存続し、今日でも人間の成長にとって最も大きな影響力をもっているのは、次のような意味でのより根源的な学びと教えである。すなわち、道なき道で、未知の他者や出来事と出会い、そこで生じた困難と全身全霊を傾けて格闘することによって、結果として一定の知識や技や知恵を身につけ、他者や世界との関係を築き、自分を築き上げていく学びであり、それを傍らで導き、支えるものとしての教えである。
 そこでは人びとは、学びを通じた〈知や技の向上=世界が広がること=他者との交わり=自己の成長〉に深い悦びをおぼえる。だがその悦びは、自己を取り巻く世界や他者と格闘したり、自らの力で知や技をつくりだしたり、古い自己から脱皮したりするときの苦しさや痛みから切り離すことはできない。そこでは"教師"に必要なのはまず、学ぶ者が学びの苦しみや辛さから目を背けないように励まし、支えることだといってもよい。

 いわゆる「ゆとり教育」と「反ゆとり教育」なるものがもたらしたものがあるとすれば,松下氏の言うような「学び」と「教え」とが崩壊し,子どもに単に楽をさせるか苦役を強いるか,そしてそれを「教育」と称してやることが常態化したことではないか。