学校をどう始末するか

 山本哲士氏が、http://hospitality.jugem.jp/?eid=31で、

 学校解体ではない、学校へ行かないことを半分の子どもは選択できる、もう半分の子どもたちは学校へ行きたいからいく、こういう理念的なバランスになったとき、学校は制度化の支配から解放される。学ぶ自由、教師の限定的な主体的自由は、そのとき開放される。学校化権力の無化が、「がっこう」にはもとめられているのだ。

と述べている。まだはっきりとしたものではないのだけれど、そろそろ「「学校」をどう始末するか」という議論が必要なんじゃないかと思い始めている。
 時代が変わった、戦後レジュームからの脱却と言い、教育制度の改革が行われている。しかし、時代が変わったとしても、戦後レジュームから脱却するといっても、変わっていない、脱却していないものがある。それが「学校」だ。
 「学校」は様々な問題を抱えながらも延命措置がとられ続けている。一方は制度を変えることで、もう一方は制度を維持することで「学校」の延命を行っている。
 果たして、今の「学校」は延命するに値するものだろうか。「学校」に対する挑戦はこれまで何度も繰り返されてきた。それにも関わらず「学校」は依然として存在している。なぜそこまで頑なに「学校」を守り続けるのか。
 そろそろそいう「学校」をどう始末するのか。始末した後にどのようなものがあるのか。そういうことを考えはじめてもいい。