これから読みたい本

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 アップルは、『[asin:4887131925:title]』のなかで、

 カリキュラムは、国の行政文章及び教科書といったテクスト(texts)あるいは教室における実践という形で、なんらかの経験を経て姿を現すが、それは単なる価値中立的な知識の集合では決してない。カリキュラムはいかなる時も、ある誰かの選択、ある集団の見方に基づく正統的知識つまり選択的伝統の中核的な部分を構成しているのである。またそれは、一つの国の国民を組織したり解体したりする、文化的・政治的・経済的な葛藤、緊張、及び妥協の産物でもある。(中略)ある特定の集団の知識を最も正統である、つまり公的知識であると認定することは、一方で他の集団の知識が日の目を見ないでいることを意味する。このことを考えると、何が公的知識であるかという決定は、誰が社会的権力を握っているのかに関して、非常に重要なことを語っているといえる。

と指摘している。長尾彰夫氏は、『カリキュラム・ポリティックス―現代の教育改革とナショナル・カリキュラム』のなかで、

 わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。そして暗黙の同質性を前提にした多様化は、それがいかに異質性(heterogeneity)を含むかにみせかけつつも、その実は単なる同質性のなかでの差異化にしか過ぎぬものになっていく。そしてそのような差異化は多様性が本来的にもっているダイナミズムを持つことができない。そればかりか、暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていくことにすらなっていく。そこではまさしく利害の不平等が隠された形で巧妙に再生産されていくだけなのである。(中略)
 もし、われわれが多様性というものを、生きた現実のなかでとらえようとするならば、こうした社会的な立場、生き方、アイデンティティのあり方における多様性にこそまず注目すべきなのである。そして、こうした社会的立場、生き方、アイデンティティのあり方における多様性を包み隠したまま、共通の文化、共通のカリキュラムという土俵のなかでみられるあれこれの違いへの対応を、あたかも多様性の尊重であるかのようにすり変えていく構造を批判していかなければならない。

と指摘している。
 日本では、長尾氏が「わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。」と指摘するようなことがあるため、オフィシャル・ノレッジ(公的知識)をめぐる問題は顕在化しにくいし、議論も下火だ。
 安倍内閣の教育改革において重要な問題の一つは、オフィシャル・ノレッジの問題だ。しかし、そこにあまり関心が向けられていない。オフィシャル・ノレッジの問題に今こそ目を向けるべきだと思う。この本を読んで、オフィシャル・ノレッジの問題を少し考えてみたいと思う。