教師を「現場で育てる」という視点の無い改革

 『教育』2006年4月号の扉の言葉からの引用。

 私たちは、教師が育つ場所の一つは教室と学校である、と思っている。学校の外にある研修機関や自主的な学びの場はもちろん大切な成長の機会である。しかし、実践的問題が不断に生起する教室と学校でこそ成長したい、という教師の思いは強いのではないだろうか。
 これまで、教師の多くは、この教室と学校で自らの教師としての成長を実感することができた。教師の成長は、実践者相互の意見と悩みの交流(同僚性)、それと援助的な指導を頼りにできた先輩教師と管理職の存在(見守り)、によって可能であった。
 しかし、今日、学校は教師を育てる場所とは言いにくい存在になってきている。学校は権威主義(管理)と形式主義(数値目標)よって運営され、教師をバラバラで孤独な存在へと押しやっている。同僚性の喪失は、管理への従属と一時しのぎで単純な技術的解決へと走らせてしまう。

 教師の資質の向上が叫ばれながら「現場」には目を向けない。教師を金太郎飴製造工場に投げ込み、そうして出来上がった金太郎飴は現場で切り売りされ、消費されていく。同じ方向を向いていなかったり、味の違う金太郎飴は工場に戻されるか、廃棄処分。教師はそんな金太郎飴になろうとしている。
 教師の資質向上が必要だと言いながら、「現場」が果たしてきた役割、果たす役割に目を向けない。教師は「現場で育つ」というごく当たり前のことが忘れ去られている。