最低限度のハードル

教育庁:学力基準新設へ 小中校で最低限の学習 /東京

 都教育庁は、小中学校で確実に身に着ける必要のある最低限の学習内容を「東京ミニマム」(仮称)として新たな学力基準を設ける方針を決めた。基本的な読み書きや計算ができないまま進級してしまう子どもたちに焦点を当て、基礎学力の底上げを目指す。08年度にも具体的な基準を示したい考えだ。

という。時事通信社の記事では、

 都教委指導部は「子どもたちにとって、内容が分からない授業は苦痛そのもの。最低限必要な学力を身に付けて卒業できるよう支援したい」としている。

ということが言われている。最低限の基準を設けて、それに力を入れていくというのは、内容が分からない授業で苦痛を感じている子どもにとって良いことだろう。しかし、その一方で「最低限度のこともクリアできないのか」と言われる子どもも出てくるだろう。
 九九を覚えるとその後の学びで役に立つかもしれない。しかし、九九を覚えなくても代わりの方法で同じことはできる。九九を最低限度としてしまうとそういう代用できるということを子どもは学ばずにそこで躓いてしまうのではないか。
 公式を最低限度とすると、公式を覚えることに力を注ぎ、その公式がなぜそうなるのか、公式を使わなくてもそれ以外のものをうまく用いて解けるということを子どもは教えられないのではないか。
 最低限度というハードルはとても低いように見えて、実際にはとても高いハードルではないか。できる人にとってはそれくらいという感じかもしれないが、できない子にとってはそうではない。結局はできる人の作ったできる人のための基準でしかない。
 昔のことを美化するのではないが、昔はそういう基準は子どもと教師とでうまく設定しながら柔軟にやっていたんじゃないだろうか。九九ができるまで残して何が何でも覚えさせるのではなく、覚えなくてもこういうやり方があるよと言ってくれる教師が居たんじゃないだろうか。そういう柔軟さは教師が常に子どもを見ていて、基準なんかに囚われないからできる。今は、子どもじゃなくてテストを見ていて基準に囚われている。だからそういう柔軟性が失われているのではないか。
 何もかも最低限度のことはと言うけれど最低限度を超えるのも超えさせるのもはなかなか難しい。