もうすぐ一年が終わる

 もうすぐ一年が終わる。ツイッターでも書いたけれど、今年はあまりブログの更新ができなかった。書くことはあるのに書けない。そういう状況が続いた。実は、3月に長男が生まれたのだけど、それから後は一年がザーッと過ぎたような感じ。
 教育のことを少し書くなら、今年は教育から「包摂する」とか「受容する」ということがだんだん無くなっているなと感じる年だった。来年はどういう年になるのだろうか。
 今年一年お世話になった方々に感謝。良いお年を。

自分たちでラベリングする人たち

ゆとり教育世代:7割が学力低下実感 明大学生が同世代1000人調査 - 毎日jp(毎日新聞)

 以前使っていたブログで「「ゆとり教育世代」って言うな」というエントリーを書いたことがある。そこでは、殊更に「学力低下」を取り上げることで「ゆとり教育世代」という言葉で括られる人たちを非常にネガティブなイメージで捉えてしまうことが問題だということを書いた。それは、外側からのラベリングの話。この毎日新聞の記事は自分たちでラベリングをしてしまう人たちの話。
 現在、「学力低下」という言葉が非常に広い意味で、曖昧な意味で使われている。これはそのいい例だと思う。学力低下を実感している根拠はと問われたらなんと答えるだろうか。それぞれが異なる根拠を挙げるだろう。では、記事にあるような調査したとしてなんの意味があるのだろうか。なんの問題の解決につながるのだろうか。

「教科書論」無き教科書論

【金曜討論】「デジタル教科書」 宮川俊彦氏、梅沢由香里

【私も言いたい】「デジタル教科書」/「導入に賛成」は2割台

 この二つの記事を読みながらどうしても理解出来ないところがある。それは、教科書の話をしながら「教科書って何か」「教科書の役割は何か」「教科書はどうあるべきか」そういう話がほとんど出てこないこと。教科書について議論をしているはずなのに「教科書論」がない。おかしいでしょと思う。
 教科書について「どんな形がベストなのか」そういうところに議論を持っていかずに、ペーパレスだとか、効率的だとかそういう表面的なところでしか議論しないのであれば電子化なんておかしなはなしだし、紙媒体のイメージをいつまでも引きずっているほうもおかしい。

短絡的な戦後教育観からの脱却

 今日は65回目の終戦記念日。様々なところで関連したエントリーが書かれていると思う。ここで書いておきたいのはいわゆる「戦後教育」観について。
 例えば,

【主張】盆の帰省 「元気かい」で絆強めたい

 昨今は、戦後教育の行き過ぎた「個」の尊重などもあり、若い世代を中心に目には見えない「縁」や「絆」への思慕が薄れつつある。このままでは日本人の魂も空洞化しかねない。

とある。これは確かに戦後教育観であるけれど,戦後教育をそれだけで語ることはできない。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061107/1162883725で戦後教育の歴史と向き合うことを書いた。また,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070127/1169875268では戦後教育をどう始末するかということについても書いた。
 日本の戦後教育とはどういうものだったのか。それを語り始めると,ステレオタイプの主張になってしまう。それは,教育問題の議論仕方にも影響を与えている。
 戦後教育を未だに左右の対立という構図でしか語らない人が多い。左右の対立という構図は戦後教育の中心であったのか,全てであったのか。そう問いかけることが馬鹿馬鹿しくなるほど,その構図でしか戦後教育を語らない。それは教育問題を議論するときにも当てはまる。
 戦後教育はhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20090915/1252948712で書いたように「パッチワーク」のようなものだ。様々な色の布がつなぎ合わされ,決して単色ではないし,二色だけでもない。その戦後教育を未だに左右の対立の構図でしか語れないことは,戦後教育に向き合えていないからであり,始末できていないからだ。
 左右対立の構図でしか語られない戦後教育観は短絡的なものだ。そういうイメージを未だに捨てきれない。そういうイメージを未だにすり込まれ続けている。それは,左右両方の立場から行われてきた。左右対立の構造で語られる戦後教育観は,左右両方にとって必要なものだった。その構図から抜け出したとき,自分たちの主張の正当性を失うことになるからだ。
 今必要なことは,左右両者の共犯でつくられた構図から語られる戦後教育観からの脱却だ。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061107/1162883725で引用した道場親信氏の言葉を借りながら言うなら,「戦後教育」という肥沃な経験の領野がもつ可能性に十分に向き合いながら戦後教育の歴史を使い捨てるのでなく,歴史と対話すること,そして,教育問題を妥当性と合理性から議論できる環境をつくり出すことだ。

全国学力テスト依存症

国学力テスト 「抽出」で失った貴重なデータ(8月2日付・読売社説)

 全国学力テストが抽出に変わっても子どものことを把握する機会や方法はいくらでもある。必要ならば自治体や学校ごとに調査を行えばいい。
 全国学力テストがなければ何もできないように感じるのは全国学力テスト依存症の典型的な症状。早く直した方が良い。

全国学力テスト依存症 その2

【主張】全国学力テスト 全員参加に戻し競い合え

 この社説を読むと全国学力テスト依存症の典型だなと思う。それは,

4回目の今年は民主党政権下で抽出方式に縮小され、市町村や学校レベルの学力比較ができなくなった。やはり全員参加に戻し、すべての学校、教師の授業改善に生かすべきだ。

来年度から新しい学習指導要領が小学校を皮切りに本格実施される。抽出では学校ごとの課題が分からない。全員参加で大いに競い合うことが望まれる。

というところによく現れている。
 全国学力テストでなければ何もできない。必要なことができないと嘆く。それがこの依存症の怖いところで,自分たちができることがないかと考えもしないし,自分たちができることをやろうともしなくなる。犬山市のような例はこれから現れないのかもしれない。
 全国学力テストに巻かれていれば安心。全国学力テストの船に乗っていれば安心。競争しているという気分にもさせてくれる。全国学力テストという偽薬。依存症になりやすい偽薬。早く直しましょう。

このグラフはどう読めばいいですか

【学力テスト】分析的読解できず グラフ見て考える力弱い

 この記事にグラフがついている。http://sankei.jp.msn.com/photos/life/education/100731/edc1007310036000-p1.htmこのグラフはどう読めばいいのだろう。
 http://benesse.jp/berd/center/open/berd/backnumber/2005_04/fea_ikeda_01.htmlで池田央氏がアメリカのNAEPについて説明する中で

 トレンドNAEPでは、スペルや四則演算のように、時代の変化にかかわらず不変に求められる基礎学力(スペルや四則演算など)を測定します。9、13、 17歳の生徒に対して、数学、理科、読解、作文(ときに公民)の学力調査が行われ、毎回、同様の問題が使われます。継続的な傾向から学力の変化を探る目的なので、「変化を測定するときには測定尺度を変えてはならない」という原則が守られているのです。測るものさしを変えては統計指標の年次変化の比較はできません。つまり、尋ねる質問は同じものか、少なくとも内容的にも答えやすさの点でも同等のものでなければ、以前の結果と比較して学力が上がったか下がったか判断はできないわけです。

と述べている。その中で特に

「変化を測定するときには測定尺度を変えてはならない」という原則が守られているのです。測るものさしを変えては統計指標の年次変化の比較はできません。つまり、尋ねる質問は同じものか、少なくとも内容的にも答えやすさの点でも同等のものでなければ、以前の結果と比較して学力が上がったか下がったか判断はできないわけです。

と指摘している。全国学力テストは「項目反応理論」に基づいて設計されていない。だから計片変化の比較ができない。産経新聞の記事のグラフはその問題をクリアしているのだろうか。
 全国学力テストの結果が出ると,昨年より上がった下がったで騒ぐ。産気新聞の記事にあるようなグラフを示して,昨年より上がってよかったとか下がったと言って批判する。そういう人たちの「グラフを見て考える力」はどうなのだろうか。