短絡的な戦後教育観からの脱却

 今日は65回目の終戦記念日。様々なところで関連したエントリーが書かれていると思う。ここで書いておきたいのはいわゆる「戦後教育」観について。
 例えば,

【主張】盆の帰省 「元気かい」で絆強めたい

 昨今は、戦後教育の行き過ぎた「個」の尊重などもあり、若い世代を中心に目には見えない「縁」や「絆」への思慕が薄れつつある。このままでは日本人の魂も空洞化しかねない。

とある。これは確かに戦後教育観であるけれど,戦後教育をそれだけで語ることはできない。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061107/1162883725で戦後教育の歴史と向き合うことを書いた。また,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070127/1169875268では戦後教育をどう始末するかということについても書いた。
 日本の戦後教育とはどういうものだったのか。それを語り始めると,ステレオタイプの主張になってしまう。それは,教育問題の議論仕方にも影響を与えている。
 戦後教育を未だに左右の対立という構図でしか語らない人が多い。左右の対立という構図は戦後教育の中心であったのか,全てであったのか。そう問いかけることが馬鹿馬鹿しくなるほど,その構図でしか戦後教育を語らない。それは教育問題を議論するときにも当てはまる。
 戦後教育はhttp://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20090915/1252948712で書いたように「パッチワーク」のようなものだ。様々な色の布がつなぎ合わされ,決して単色ではないし,二色だけでもない。その戦後教育を未だに左右の対立の構図でしか語れないことは,戦後教育に向き合えていないからであり,始末できていないからだ。
 左右対立の構図でしか語られない戦後教育観は短絡的なものだ。そういうイメージを未だに捨てきれない。そういうイメージを未だにすり込まれ続けている。それは,左右両方の立場から行われてきた。左右対立の構造で語られる戦後教育観は,左右両方にとって必要なものだった。その構図から抜け出したとき,自分たちの主張の正当性を失うことになるからだ。
 今必要なことは,左右両者の共犯でつくられた構図から語られる戦後教育観からの脱却だ。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061107/1162883725で引用した道場親信氏の言葉を借りながら言うなら,「戦後教育」という肥沃な経験の領野がもつ可能性に十分に向き合いながら戦後教育の歴史を使い捨てるのでなく,歴史と対話すること,そして,教育問題を妥当性と合理性から議論できる環境をつくり出すことだ。