イメージ悪いのは日本の教育問題の語られ方

日教組」ってイメージ悪い?
執行委員長が激白「それは校長がだらしないから」

 前から何度も書いていることとダブるけれど,日教組のイメージが悪かろうが良かろうが教育の問題にとってはどうでもいいレベルの話。問題なのは,そういうレベルでしか教育の問題が語られないこと。そっちの方がよっぽどイメージが悪い。
 苅谷剛彦氏が著書の中で,

 教育をめぐる議論には、共通する特有のスタイルがある。あるべき理想の教育を想定し、そこから現状を批判する。批判そのものには誰も異論はない。前提となるあるべき教育の理想には、誰も正面からは反対できない崇高な‐抽象的な‐価値が含まれている。一方、そうした教育の理想を掲げていれば、現実的な問題をどう解決するか。その過程でいかなる副作用が生じるかについての構造的把握を欠いたままでも、私たちは教育について語ることができる。ここに教育をめぐる議論のもう一つの特徴がある。

と指摘し,それを引用して,広田照幸氏も著書の中で,

 その通りである。教育は、単純素朴な思い入れや思い込みで、誰もがいくらでも語れるようなトピックである。誰でも何らかの「理想の教育」を思い描けば、現実の教育をいくらでも批判できる。しかも、その「理想の教育」像の単純さのゆえに生じるかもしれない困った帰結については、考慮が払われない。―教育をめぐる議論が混乱といかがわしさに満ちている原因の一つは、ここにある。教育という営みは、未来に向けたプロジェクトであるため、現在の時点での選択肢のうち、何が一体望ましいかについては、不確実さが必然的につきまとう。だから、もっとも美しい「べき論」やもっともわかりやすいスローガンが、無責任に、はばをきかせることになる。

と指摘している。教育の問題が妥当性や合理性ではなく,イメージ先行で適否や成否,合否が語られる。そういうものこそ一番の問題。
 そして,日教組反日教組もそういう状況を共同で作り出している。両者は共存関係にある。日教組が自分たちを誇示するほど反日教組はその宣伝文句を捕まえて反論する。お互いにお互いを批判して成り立っている。どちらかが廃れては自分たちの存在意義はなくなる。そのために必要なのはイメージ先行の議論をすること。お互いにイメージの中で対立し合っていればそれでいい。合理性や妥当性よりそれが優先される。
 全国学力テストの例を持ち出せば,日教組の主張と反日教組の主張は噛み合っていないし,お互いにレベルの違うところで話をしている。けれど,日教組反日教組が対立関係にあるように見える。なんてことはない。それは,議論が噛み合っていないから。対立しているように見えてしまうだけの話。お互いに合理性や妥当性を主張することがないから問題は解決しない。
 教育の問題を語る場を,合理性や妥当性を優先して主張し合う場に変えること。そのためには,イメージ先行の今の議論には退場してもらうか,語る場を変えてもらうことが必要だ。