認識のズレが問題だ

 例えば,全国学力テストの目的は何か。教員免許更新制の目的は何か。と聞いたら様々な答えが返ってくると思う。全国学力テストを民間の全国規模の模試と同じようなものと考えていたり,教員免許更新制が不的確教員を排除するものと考えたりする人がいる。けれど,それは間違いだと考える人もいる。また,その制度に直接関わる人や子どもに近いところにいる人たちなど,立ち位置によってもそれらの制度に関する認識は異なる。その認識のズレを放置したまま制度が導入され,そのズレがその制度を停滞させている。
 いわゆる「ゆとり教育」というものがある。「ゆとり教育」という言葉が当たり前のように使われている。けれど,それは自明なものだろうか。「ゆとり教育」という言葉の定義とは何か。その言葉の定義は共通認識されたものだろうか。いわゆる「ゆとり教育の失敗」(失敗かどうかそれについても共通認識があるとは思わないのだけど)は認識のズレが要因ではないだろうか。
 戦後の教育政策はパッチワークのようなものだ。戦後の教育政策,いわゆる「ゆとり教育」もそうだけど,何らかの共通認識があったり,統一された理念のようなものや統一された方針のようなものが存在したことがあるだろうか。教育政策は様々な人の考え・主張を取り込みながらそれを組み合わせたものだった。
 それは日本の教育の曖昧さであり,良く言えば,その曖昧さがいろいろなものを包み込んで,柔軟性や多様性を持たせてくれていた。けれど,認識のズレ・曖昧さを放置しすぎたり,共通認識を持たせるような努力を怠ったり,軽視したりしてきた。その結果として教育施策が様々な認識・主張の中で迷走したり,停滞する要因にもなった。
 また,認識のズレは政治に教育が左右される要因にもなっている。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20090913/1252823792の「教育で政治をしてやるぞな人たち」にとっては,そのズレが「主張の違い」になっているし,ズレを放置した方が対立しているようにも見せやすい。また,相手の主張を批判する根拠にもなりやすい。
 認識のズレには良い面もある。けれど,それをいつまでも曖昧にしたり,放置したままだといつまで経っても教育政策の迷走や停滞から抜け出せない。認識のズレを意識して,共通認識を持てるような議論をすること。その機会と場をつくること。そして,「教育で政治をしてやるぞな人たち」は共通認識を持つためのプロセスを軽視しがちだ。そのプロセスを軽視しない根気強さも必要だ。