全国学力調査という魔法の杖

国学力テストに初参加へ=2年連続見送りの犬山市教委−愛知

 犬山市教育委員会全国学力調査に参加することを決めた。そこで,いくつか。
 時事通信のこの記事に寄せられているコメントなどを読みながら感じたのは,全国学力調査が魔法の杖のように見えているのではないかということ。その魔法の杖は,その妥当性を考えずに,それを使うことで様々なことができてしまうように見せてしまう。
 犬山市が行ってきた「教育」がそれで評価できると言うけれど,その根拠はどこにあるのだろうか。全国学力調査で教師の力量が評価できるという俗説と同じ。
 全国学力調査では,提灯と釣り鐘に例えたように,比べられないものでもランキング化してしまえば何か評価した結果を眺めているような気になる。そこからしか話が始まらないから,ランキングの順位,平均より上か下かという話が中心になる。
 ランキング化してしまえば,競争をしているような気にもなる。百メートル走で,同じスタート地点から同じゴールまでの間で競っているように見せている。けれど,同じスタート地点から同じゴールに走っているところはないし,同じ走り方,同じコースを走っているところもない。
 PISAはそこをよく考えている。各国のカリキュラムなどから切り離して,自分たちで評価の枠組みを設定し,同じスタートとゴールを設定し,それで評価している。また,ランキング化するときには,その限界をきちんと示し,それでも妥当性を確保するために様々な処理をして行っている。全国学力調査は,そういうことをしない。テストをし,それで並べてしまえば,何かが見えてくるだろうというようなものだ。
 全国学力調査という魔法の杖は,イソップ物語の牛と蛙の話のように,負けずとおなかをふくらませる蛙を増やしている。その蛙のおなかもいつかは破裂する。そういうことよりも,全国学力調査という魔法の杖ではなく,「評価」をしてほしいと思う。