なんとなく考えたこと

 トラックバックをしていただいたので何となく考えたことを書いてみる。
 最近,教育のことを経済の用語で語ること,語ろうとするのが多くなっている。けれど,それは苅谷剛彦氏が[asin:4061498665:title]のなかで次のように述べている。

警戒しなければならないのは,教育以外の言葉で教育を語り始めたとき,今度は,経済の言葉が一挙に入ってきたことである。市場,選択,競争,消費者,受益者,アカウンタビリティ等々。いまや,教育を語る際に,経済の言葉が大手を振っている。教育の言葉の呪術性が薄れてきた分,それを埋めるかのように,経済の言葉が魔法の呪文として使われ出した。市場での選択にゆだねれば,競争を通じて教育は改善する(あるいは教育問題は解決する),といった言い回しは,呪文の言い換えに過ぎない。魔法の呪文の勢力圏が変わっただけである。経済の殺し文句を使わずに,教育を語ることが今では必要になっているのだ。

annntonioさんが引用されている方の主張は,苅谷氏の言う「魔法の呪文」を並べたものだ。
 魔法の呪文の中にある,「競争」について。提灯と釣り鐘を並べてどちらが良いかという品評会をしている。「競争」という言葉であっという間に提灯と釣り鐘が釣り合いのとれたものに見えてきてしまう。魔法の呪文だ。
 以前,「悪競争」ということについて書いたけれど,競争が必要のないところまでも競争させてしまう。競争が目的化し,いつの間にか本末転倒し,本末が逆転してしまう。評価する視点を忘れ,魔法の言葉の「競争」を自分の存在意義にしてしまう。全国学力調査などはその代表的なものだ。
 それと,競争が存在しても,そこに弊害があるなら変えていく必要がある。けれど,その弊害を弊害と思わないように子どもがなれば,それは気のせいにされたり,些細なことにされてしまう。それを,教育の目的に据えようとする。競争にさらせば競争に慣れるだろう。けれども,弊害に気づかなくなるなら,それは教育の目的としておかしくないだろうか。
 annntonioさんがトラックバックしてくださったものを読みながら,そういうことを考えていた。