教育者の「政治性」

荻原克男「市民・地域が支える教育へ向けて 可能性としての地方分権・学校裁量権の拡大」『BERD』No.3より

 教育者の「政治性」
 
 分権化の推進で教育におけるナショナル・ミニマムの問題が問われます。とりわけ争点になるのが教育費保障です。
 文部科学省は義務教育費国庫負担金を教育にしか使えないおカネとして維持すべきだと主張してきました。しかし、いま議論されている「三位一体の改革」では、国が最低限の財政保障はするけれど、何にどう使うかは自治体の裁量に任せる、つまり一般財源化することが検討されています。
 教育費を地方交付税のように一般財源化すると、橋や道路などの建設費に化けてしまうのではないかとの危惧が教育関係者の間では概して強い。しかし国がいちいち使い道を指定しないと自治体が教育保障に金を回さなくなるという危惧は極端に過ぎるでしょう。
 地方行政が住民の信頼を維持・獲得する上で教育はとても大きな存在です。教育、福祉、道路、産業振興などすべてを含めて、公共政策の優先順位をどのように付けるのか。それを地域で決めるというのが自治・分権の基本です。全体的な政策論議の過程を市民へ開示して、地域自ら選択し決定するという経験をしてみないことには、実質的な自治・分権は進みません。先般の中教審の答申にもありますが、これからは地域と学校が主体となって、ローカル・オプティマム(地域ごとの最適条件)を模索していく必要があります。
 国の予算は、もはや各省庁による積み上げ方式では立ち行かないため、内閣府のような総合的な調整部局による政策統合のウエートが高まる傾向は、この先政権が変わっても基本的には変わらないでしょう。低成長下の限られた財源でどのように公共サービスを組み立てるか、国民全体で考えなければいけない時期に来ているのだと思います。教育も例外ではありません。むろん教育関係者は、教育を疎かにしてはいけないと主張し続けるべきですが、そのような全体状況は認識する必要があり、だからこそ市民・地域の活力を生かす方向が探求されているのです。
 いま、教育の分野で注目すべき改革を実現しているのは主に知事や市長など首長たちです。直接指導する場合もあるし、思い切った人事によって活動の場を与えて、あとは教育関係者に任せるという場合もある。今はまだ大きな財源と権限を国が握っているため中央での政治主導による改革が進んでいますが、地方への財源移譲と権限の委譲が進めば、いずれ否応なく地方も政治主導の改革が本格化していくはずです。
 そうした状況下では教育界のリーダーにも政治的な折衝能力が問われてきます。政治は政治家に任せていればよい時代は終わって、これからは教育者も良い意味で「政治的」になるべきでしょう。かつては「政治的」というと、日教組と旧文部省の代理戦争とか、イデオロギー対立に結びついたので、それに懲りて教育現場では「政治」には関わりたくないという意向が今でも強い。しかし、地域主導の教育自治を実現するために教育者がいかにして良い意味で政治的になれるか、ということは今後の重要な課題の一つです。

 なぜ現場では「強要感」「徒労感」が強いか

 この改革動向をチャンスと受け止める発想の転換、と先に述べました。しかし現実の学校現場では、裁量や自由度を拡大する方向の改革なのにもかかわらず、必ずしもそうは受け止められず、むしろ「強要感」や「徒労感」の方が広がっているように見えます。それはなぜでしょうか。
 分権化について審議した1998年の中教審での議論を見ていて、なるほどと思ったことがあります。この審議会には地方の教育長や校長も参加していたのですが、最初は、「今なぜ分権化や学校の自律性という改革が必要なのか分からない」といった当惑の声が強かったのです。つまり、教育長や校長にしてみれば、自分たちはこんなに努力して取り組んでいるのに、どうして改革をしなくてはいけないのか、と。
 冒頭で述べたように、現在の改革の発端は外側から来ていて、文部(科学)省は政府の中の一省庁ですから、内閣に置かれた権威付けされた審議機関がいっている以上、対応しなくてはならない。しかし、中教審に呼ばれた教育関係者にとっては、政府全体の改革の一環として現われていることに対して、教育に内在的な問題は特にないと認識している。つまり、なぜ改革が必要なのか、教育界「内部」にとっての積極的な理由が見いだせなかったわけです。
 似たような状況は今でも続いています。検討が外在的に始められて、出てくる結論は微温的というか、最大限譲歩してこうなった、というかたちになりがちです。いきおい改革メニューは断片的になりやすく、政策の一貫性も明らかではありません。しかし、検討して決めた以上は教育委員会と学校現場に下ろす。かつては「こうしなさい」と一定の方向付けのある、半ば画一的な「指導」が下りてきましたが、最近では「現場の判断に任せる」、「どうやるか主体的に考えよ」といった下ろし方になっています。学校現場では、そういうスタイルに慣れていないので非常に戸惑う。
 端的な例は、昨今の「ゆとり教育」をめぐる方針です。基礎学力重視に戻すのか、ゆとり教育を進めるのか。次から次へと一見矛盾したメッセージが伝わってくるので、教育現場は混乱してしまう。先生方に訊くと、皆さん一様に、ここ5∼6年、途端に忙しくなったとおっしゃいます。
 そうした状況をむしろチャンスだと思いますか、それとも「またか……」と“改革疲れ”を感じていますか、と尋ねると、だいたい二分されるのです。同じ一人の中でも両義的である場合が少なくない。それはつまり勤務校の状況や校長先生のリーダーシップ次第という面が大きいわけで、こういう校長先生がいるのであれば前向きに考えられるけれど、そうでないならやはり徒労感が強い、と。これもあれもと首尾一貫しないメッセージが次々と施策として下りてきたときに、それに丸ごと一律に対処しようとするのでなく、あえて“手を抜く”部分と、本気で取り組む部分の優先順位付けができる校長先生なら、現場は徒労感に陥ることなく元気でしょう。「校長先生、今ゆとり教育といわれているのに、こんなに基礎ばかり重点的にやっていいんでしょうか?」「私が責任を持ってきちんと説明する、大丈夫だ」といえるのか、そうでないか。あるいは教育長や地方の政策担当者がそうした戦略的思考を持っているかどうかによって事態は大きく違ってきます。
 これまでの分権改革では都道府県レベルの自由裁量権の拡大が主要目標でしたが、その先に市区町村レベル、そして最終的に学校現場にどこまで権限を下ろし裁量を拡大するかという課題があります。そこで鍵となるのは各段階で下ろされた権限と裁量を使いこなせるリーダーの力量です。
 学校現場では校長先生のリーダーシップが決定的ですが、必ずしも「自ら先頭に立って引っ張る」型だけではありません。上越市内の学校でこんな例があります。そこでは、いわゆる職員会議は4月の年度始めに1回開くだけです。その代わり月に1度、学級経営で抱えている問題や成功事例などについて各自がレポートを提出し、検討しあう会を開きます。これは随時外部にも公開されています。形式的な会議を廃して時間的ゆとりを生み出すとともに、実質的な議論ができる「場」を設定し、互いの学習を促進する仕掛けづくりに意が用いられています。その結果、管理者としての校長のトップダウンではなく、各教師が対等な立場で自発的に学校づくりの一翼を担っていこうとする態勢が生まれました。こうしたコーディネータ型もリーダーシップの一つの在り方です。