教育における公益は、個々の消費者の私益の総体には還元できない

【正論】精神科医国際医療福祉大学教授 和田秀樹

 和田氏の主張を読みながら思い出したのは,デイヴィッド・F・ラバリーの「脱出不能‐公共財としての公教育」という論文だ。ラバリーは

教育における公益は、個々の消費者の私益の総体には還元できない。というのは、私益を追求する個人を全部集めても、誰も他人の子どもの教育を省みようとすることにはならないからである。学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒されているなら、すなわち、よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供するといった圧力に晒されているなら、そのときは、教育の広範な公的便益が浸食されることになろう。こうした消費者優先の学校システムは、教育経験を著しく階層化し、力のある消費者に対して、システムからの利益を勝ち取る機会を拡大することになるであろう。それは、教育システムを、勝者と敗者を作り出す選別・選抜メカニズムとしての性質の強いものにしていく。しかも、この場合、敗者がいるからこそ、勝つことに意味があるということになる。

と指摘している。今の日本の教育の現状は,「学校システムが個々の消費者に私的財を提供するという圧力に晒されている」。教育が「よい仕事や社会的地位や快適な生活といった私的財の獲得競争において有利な立場に立つ機会を提供するといった圧力に晒されている」。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080204/1202093821http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080209/1202515289で「公教育」という言葉について書いた。和田氏は「公教育」を「公立の学校で行われる教育」という意味で使っているけれども,「公教育」というのは公立・私立の区別はない。両者共に担うものだ。「公教育」では公益が追求される。そこには,「公益」と「私益」との間で葛藤が起こる。その葛藤をどうやって折り合いをつけていくか。そこを考える必要がある。
 まずは,「公教育」を単に低コストで教育を受けることができるシステムとして捉えるのではなく,「公教育」を担う学校システムをどうするのかということを考えるべきだ。