ここによく表れている日本の学力をめぐる論議のおかしさ

学力テスト1位「秋田に学べ」は大丈夫? 大学進学率は低迷

 日本における学力をめぐる議論のおかしさがこの記事にはよく表れている。以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20071206/1196896313で次のようなことを書いた。

 PISAの結果についてマスコミはそろって不安を煽り始めている。そういう状況の中で出てくる主張は,時間増,いわゆる「ゆとり教育」からの脱却といった的外れなものばかり。
 考えておかなければならないことは,PISAの「リテラシー」という概念が本当に日本で育成されようとしているのか,育成されてきたのかということ。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20071130/1196370772で「日本型」という言葉で表現したけれど,日本において一般的に「学力」として想定されてきたもの,されているものはPISAの「リテラシー」という概念とは異なる。一般的には「リテラシー」という概念を単に「応用力」「活用力」などと日本型の学力の延長線上にあるかのように錯誤されている。また,文部科学省などもそれをきちんと説明しない。「学力」という言葉はこれまで一度として「定義」されてこなかった。「学力」という言葉はその時や場合に応じて定義が変わっている。だから,「日本型の学力」と「リテラシー」が混同されるのも仕方ない面がある。
 そうした側面があるとしても,今回のPISAの結果を報道するマスコミの不安の煽り方はおかしい。学力低下に関する報道は毎回,異常なくらい不安を煽るけれど。現場や子どもたちは,PISAの「リテラシー」という概念ではなく「日本型」の学力向上にこれまで取り組んできたし,取り組まされてきた。PISAの結果でランキングが落ちたから,今度はPISAの「リテラシー」を育成しないといけないとマスコミなどは一斉に言い始める。けれども,もう少し時間が経てば,それはいつの間にか「日本型」学力の話へとすり替えられていく。それでは,現場や子どもは混乱するだけ。

 なぜ,全国学力調査の結果とセンター試験などの結果が連動しないのか。それは,それぞれの想定している「学力観」の違いによる。しかし,マスコミをはじめとして「学力観」を混同したまま論じている。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080710/1215628979で日本の「あいまいさ」には良いところもあり,悪いところもあるということを書いた。今回取り上げた記事は,そのあいまいさが悪い方向に出たものだ。
 PISAは大きな衝撃を与えた。けれども,それはランキングの上下がショックを与えたのであって,マスコミをはじめとしてその大本にある学力観にはほとんど見向きもしていない。ただ「学力」という言葉だけが一人歩きし,ランキングの上下=学力の上下としか捉えられていない。
 全国学力調査の結果公表は,PISAにおいてフィンランド詣でが盛んになったように,秋田詣でを盛んにしたかもしれない。けれども,それらの多くは,学力観やその背景にあるものに目を向けることなく,ランキングの上下を見て,それをただ礼賛し,ランキングの上位に入るための「秘訣」などというものだけを知りたがっている。
 それは,学力を学力観というようなところまで立ち返って考えたり,論じるのではなく,ランキングというような皮相的なところでしか捉えないこと,その結果としてますます,学力を皮相的なところでしか捉えない傾向が高まっていること。同じようなことが,子どもたちの意識においてもより進んでいること。安易で短絡的に学力テスト・学力調査を捉え,その結果が論じられていること。そうしたことが背景にある。
 全国学力調査の結果について,日教組の影響がある,否無いというところで論じることは盛んであっても,ランキングの上下について論じることは盛んであっても,学力観やその学力観を決定するための背景にある社会の問題につなげるような論は少ない。そうした論じられ方をすることで,奥の方まで目を向けることが難しくなっている。日教組の影響云々,ランキングの上下云々,そうしたことばかり論じられることがもっとも,学力の問題に悪影響を与えている。そのことを自覚すべきではないか。