限界をふまえない議論 全国学力調査という魔法の杖

【主張】学力テスト 指導の改善へ積極公表を

 全国学力調査をめぐる議論でよく目にするのは,限界をふまえないまま議論しているもの。ここでいう限界というのは,全国学力調査を含めたテストは,見ようとするものしか見えないのだということ。
 全国学力調査のことを何度も「魔法の杖」に例えている。その理由は,限界をふまえないままsれもこれも評価できる,実態が把握できるという議論が多いからだ。
 例えば,教師の能力を評価したいと考える。そうであるならば,必要な調査項目は何か。妥当な調査方法は何か。改善策を立てるにはどのような調査項目が必要か。そうしたことがまず第一に問題にされなければならない。けれど,全国学力調査に関する議論では,評価できるという前提でそうしたことを問題視しないまま,結果の公表だけが主張されている。
 もし,結果が公表されなければそもそも何も分からないではないかといわれるなら,それは本当だろうか。アメリカやイギリスの全国的な調査,PISAなどは調査したい項目があって,それを調査するために制度設計をし,試行錯誤を繰り返している。なぜ,そういうことをするのか。それは,テストが見たいものしか見えないという限界があることを十分に承知しているからだ。
 彼らは,見たいものを見るために制度設計をし,試行錯誤をしている。だからこそ,結果が公表されそれを根拠とした議論がおこなわれている。彼らは公表しなければ分からないのではなく,こういうことが分かるから調査をするのであり,その為の試行錯誤もしているから公表する。そして,それは信頼性を高め,妥当性を高めている。
 日本では手続きが全く違う。知りたいから調査するという。知りたいことが何か。それをまず明らかにすること。テストの限界をふまえた上でその為の制度設計,調査項目の選定を行う。結果が公表され,拡大解釈を認めず,信頼性や妥当性を尊重する。そうしたことが軽視されたり,無視されている。とにかく調査せよ。公表せよとなる。
 調査(テスト形式で有る無しに関係なく)の限界をふまえないまま,結果の公表が主張されている。また,そうしたことが抵抗勢力を持ち出すことで全く問題視されない状況にある。抵抗勢力を持ち出した瞬間に,全国学力調査は魔法の杖となり,その限界は忘れ去られる。制度設計や調査項目の問題など忘れ去られてしまう。そうしたことをいつまで続けるのだろうか。きちんと,限界をふまえた議論をすべきではないか。