試行錯誤を否定してはいない

 私の主張していることは,試行錯誤を否定することではない。全国学調査は今まさに試行錯誤の最中であると言われるかもしれない。しかし,その試行錯誤は合理的な判断に基づいたものではないということを主張してきた。それは,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080918/1221676531で書いたことの繰り返しになるけれど書いておきたい。
 苅谷剛彦氏が[asin:4480059296:title]で指摘したことは,大規模に一斉に導入ではなく,小規模で試行錯誤を繰り返して,その結果を反映させていけばいいといったことだったと思う。全国学調査については,悉皆調査というリスクもコストも大きなものを一斉導入するのではなく,各地で行われていた学力調査や各学校,各クラスで実施されていた評価,または,PISAやNAEPなどの先行事例のように抽出調査をいくつか実施するということができた。それをやらないでなぜ大規模は形で,リスクもコストも大きいものを導入したのかということを批判し,そうしたことを防ぐためにはもっと議論を積み重ねてもよかったのではないかと考えている。
 また,今よく見られるような,お上がやるハイステークスな改革が抱える問題を軽視しすぎるように思う。以前,岡崎勝氏のつぎのような言葉を引用したことがある。

 いままで「教育改革」と称する「学校制度や教育内容に関わる政策改編」が、歴史的にも何度かあった。そのたびに、私は学校現場の教員として、その「騒ぎ」に関わりつつ、いつか沈静化し、日常に溶解するのを眺めながら、忙しさの中で毎日をやり過ごしてきた。圧倒的多数の義務教育学校教員は、私のような態度をとる者が多かったように思う。
 私たち教員は、その騒ぎの中でも、毎日、淡々と子どもたちの相手をし、「おつきあい」してきた。ある意味で、軟弱でもあり、また、したたかでもあった。子どもたちも、どんなに「低学力」と非難されようと、圧倒的多数が、学級崩壊だろうがなんだろうが、とりあえず、「教室空間」を維持し、クラスメイトだけでなく、「メル友」「援交仲間」「塾仲間」などと、「友達」をつくり、休み時間になれば元気におしゃべりしてきている。
 今次の教育改革はある種の「公共事業的」なものなのだが、いままでの「改革」同様、「悲惨なエネルギー浪費」を私たちに強いることになるだろう。そして、判然としないにもかかわらず、生き続けている「教育の思想」の頑迷さと、それを空洞化し無化する、したたかな「現場の原理」を確認することになるだろう。

 こうしたときに「どうして教員は断固闘わないのだ!」と言う声がどこからか聞こえる。闘わないまでも、「教員がのびのびしていないのに、教えられている子どもがのびのびするはずがない」というのは、原理的には正しい。しかし、それよりも、教員という存在は、「子どものためになること」の積み重ねにしか、仕事の意義を見いだせない(社会的に認知されない)でいる現状がある。しかも、それが「本当に子どものためなのか?」という反問すらも微妙にずらしていくのである。そもそも「子どものため」などという教育の言説は、個人的幻想と錯誤の産物でしかない。しかし、「そういってしまったら、おしまいです」といいながら、それでも、「善きこと」を過剰に積み重ねることで自己確認するのである。
 結果的には社会が求める「教育愛」の圧力による可視的な「教育愛」の再生産としての過剰な量の仕事が生まれる。しかも、現在は「市民の目」「世間の評価」という実態の見えない幽霊がおおきく学校を取り囲んでいる。人事考課という教職員の査定、問題教師排除のシステムも作られていく。ますます、労働条件の改善要求は自主規制し、教育愛をアピールしていくことが教員の至上命令となり、疲弊していくだろう。
 「子どもたちにとって本当によい教育改革なのでしょうか?」という視点からだけでは、根本的な批判にはなり得ない。「市民運動」対「行政当局」という対立図式での批判さえも吸収していく柔軟な面を教育改革言説は持ちうる。
 思い起こせば、愛知の管理主義教育が「終演」したのは、そこで過剰で過激な教育愛の再生産に疲れた教員たちが引っ込んだからである。決して「民主教育が勝利」したのではない。それが、証拠には「民主的教育」が、現在、学力批判派と共に、あらたな「『真の学力』低下は許さない」と補習授業を担おうとしている事実もある。「教育愛」は不死である。
 「批判というのは、物事が現状において良くない、と言うことのうちにあるのではない。そうではなく、受け入れられているさまざまなプラティックは、いかなる種類の明証性や慣習性に基づいているのか、そして、獲得され改めて反省されることのないような、いかなる思考様式に基づいているのか、ということを見極めることこそが批判というものです」とフーコーが言うように、循環し生き続ける教育愛の権力の存在を無視した、教育改革批判はおのずと限界があると言って良いだろう。

 また,http://ci.nii.ac.jp/naid/110001176116/にある,恒吉僚子氏の「公教育におけるハイ・ステークス(high-stakes)な教育改革」という論文に指摘されている問題。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061129/1164783858ボトムアップの改革をと言うことを書いたが,いつまで,お上から降りてくるものにお上に手を引っ張られてこなしていけばいいのだろうか。教育の問題を解決するために内部に問題があるとし,そこにお上なるものが風穴を開けるというなら,その後になぜ内部のエネルギーをただ消費させることをやるのか。お上が手を引っ張れば,教員はそれをこなしていくだろう。けれども,その手をお上が離さなければ,内部は何も変わらない。
 教育改革が内部の変革を狙うなら,風穴を開けた後にすることはたとえ葛藤があっても内部で議論をしたり,内部に任せるということをする必要がある。また,内部だけでなく,教育にかかわる人が様々なレベルで様々な議論をし,共有するものや変えていくもの,そうしたことを見つけていくべき。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070206/1170689765で内部の問題にも少し触れたことがある。
 内部が何もやらないからお上がまずはやってみる。それだけの改革が横行している。内部をどう変えるか。その仕組みを考えないまま行われている改革が多い。それは当事者に当事者意識を持たせることにつながらない。相互批判と相互不信だけを募らせる今の教育改革は間違っている。