学力調査の拡大という本末転倒した主張

「学力テスト、小5?中3に拡大を」文科相私見

 塩谷立文部科学相は26日、昨春に約40年ぶりに復活した全国学力テストについて「(小学)5年から中学生ぐらいまで毎年行い、自分の学力向上が測れるシステムができればよい」と述べ、対象を現行の小6と中3の2学年から拡大させるのが望ましいとする認識を示した。

 塩谷文科相は個人的見解と断った上で、対象拡大に言及。「子供たちも(自分が)どういうレベルにあるかを把握するのは必要だ。ある程度の競争は目的に入っている」とし、学校現場に競争意識を導入する必要性を強調した。

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080918/1221676531で書いたことの繰り返しになるのだけれど,全国学力調査がなぜ必要なのか。今まで各地域ごとに行われてきた学力テストと何が異なるのか。地方ごとのテストではなぜ駄目なのか。なぜ、全国一斉でなければならないのか。そういうことがほとんど問われないまま全国学力調査は実施されている。また,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080918/1221676391でも書いたように,子どもの学力について把握したければ、クラスごと、学校ごとの学力テストを実施し、それを分析し、対策を講じること。それが基本だ。そして、他の学校や他地域と比較することによって、子どもの学力やその背景にある問題が、地域特有の問題であるのか、個人の問題であるのか、教師の指導の問題であるのかを知りたければ、地域ごとの学力テストで把握することができる。
 全国学力調査を,文科相私見にあるように拡大するのは間違っている。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080918/1221675430などで何度か引用しているけれど,苅谷剛彦氏の

もしも、全国学力調査の目的が、「国の責務として果たすべき義務教育の機会均等や一定以上の教育水準が確保されているかを把握し、教育の成果と課題などの結果を検証する」(「全国的な学力調査の具体的な実施方法等について(報告)」)ことにあるとすれば、データが変質してしまう可能性をもった全員参加というデータ収集の方法は、実態把握をゆがめてしまう。とりわけ、「国は、義務教育における機会均等や全国的な教育水準の維持向上の観点から、すべての児童生徒の学習到達度を把握するための全国的な学力調査を実施することにより、各地域等における教育水準の達成状況をきめ細かく適切に把握する必要がある」(同報告)というのであれば、なおさらのことである。たとえ一般には公表されない――その危険性が全くないわけではないが――としても、学校ごとのテスト結果が教育委員会などに把握されるおそれを抱いた学校が、前述の委員が懸念するような行動を取れば、とくに学習に困難を来している生徒たちの情報は正確さを欠いたものになってしまうだろう。そうなれば、このテストの目的である、「教育の成果と課題などの結果を検証する」上での判断を読み誤ることにもなりかねない。

といった指摘,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070509/1178642759で引用した池田氏の,

 経済指標なしに経済政策の立案と決定はあり得ません。定量的な統計指標に基づくからこそ、経済の現状について正確な認識と把握ができるのであり、そこから改革の施策が生まれます。そのことは、教育政策でも同様のはずです。
 ところが、金額という単位に置き換えて計数化され、明確な指標が定まりやすい経済に比べて、教育では計数化できる明確な指標が定まりにくい。そこで教育統計で取り上げられるデータの多くは、学校数や学生数、教員数といった計数可能な数量に限定されています。しかしこれでは教育の現状を正確に認識し、把握したことにはなりません。知りたいのは、学力水準や教育到達度を示す統計指標です。果たしてこの数十年間で日本人の基礎学力は上昇しているのか、低下しているのか、上昇しているとしたらどの面で、低下しているとしたらどの面なのか。それを把握できる全国的資料は、現在のところ、ほとんどありません。現状を正確に知ることなく、どうして未来へ向けての改革の議論ができるのでしょうか。確かに、学力や体力、興味・関心を含む生徒の行動様式といった教育情報は、体力テストにおける100m走のタイムのように明確な測定単位で計量できるケースは稀です。その大半は、測定者が意図的に作成した変数や指標に基づいた尺度によって測定されます。その尺度は無数にあり得るので、結果として現れた一つの数値を唯一絶対的な学力として権威付けるわけにはいきません。
 NAEPが参考になるのは、こうした限界を踏まえているがゆえに、全国(あるいは州)を代表できるように厳密な手続きで抽出したサンプルに対し、できるだけ多くの代表的課題を調査実施することによって、効率的に正確な全体像を把握しようと努めている点です。そのために採用している前述のBIBスパイラルやIRTのような高度の測定技術と理論は日本でも導入を考えてしかるべきでしょう。
 また、結果の数値を示されただけでは、その調査がいったい何を測定したことになるのか、意味が分かりません。数値の出された過程がブラックボックスに入り、解釈に必要な手続きが不明だからです。教育の分野に限らず、統計を使うときに危険なのは、得てして、調査項目の設定過程、サンプリングの方法や実施結果、処理手続きなどのプロセスが隠されたまま、数値だけが独り歩きしてしまうことです。どのような調査も完全ではありません。したがって、そのプロセスを明示し、統計数値の見方、限界範囲、他の類似情報との比較可能性などが明らかになって初めて、その統計数値の示唆する意味を理解できるのです。この点でもNAEPの透明性と公開性の高さは注目に値します。もちろん、公開性と同時に、特定個人や学校単位の成績にアクセスできないプライバシー保護の仕組みも参考にすべきなのはいうまでもありません。

という指摘。そうした指摘を見れば,全国学力調査を現状のまま拡大するのは間違いだと言うしかない。
 よく,

子供たちも(自分が)どういうレベルにあるかを把握するのは必要だ。

ということが言われる。先日も少し書いたと思うけれど,それはフィードバックの必要性や重要性を語っているように見えて,実際にはフィードバックされるべきものが何か,それは誰にされるべきか。それを今後にどうやってつないでいくのかといったことを重視せずに「順位」や「得点」が示されることで何より上か下か,高いか低いかだけを重視している。それは,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080819/1219073896で引用した池田氏の言う,

テストデータを相互に比較し,そこから意味をくみ取るという経験と機会が乏しかった時代,そしてテストが示す数字の意味を真剣に考える必要の無かった時代

から一歩も前に出ていないものであると思う。
 また,

現行で毎年60億円の費用がかかる実情にも触れ、「簡素化してはどうか」とコスト削減にも言及した。

と述べたようだけれど,そうしたことは実施前から指摘されていたことであり,コストも負担も軽減できる選択肢も先行事例から分かっていた。そうしたことをほぼ無視して,「まずはやってみなはれ」でやっている。そうしたことを何度も繰り返している。
 必要なことは,よく言われる「子供たちも(自分が)どういうレベルにあるかを把握するのは必要だ。」という言葉で曖昧にされてしまう問題を丁寧に検証したり,議論をしたりすること。議論をすることは何もしないことと同じだと言われそうだけど,指摘されている問題をクリアすることなく拙速な実施を黙認することの方が問題だと思う。