教育改革の行方(再掲)

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 メグ・マグワイア スティーブン・J・ボール シーラ・マクリー (中村浩子) 「イギリスの教室をとりまく文脈‐構造化されたアイデンティティの役割」 からの引用。

 イギリスにおけるメインストリームの学校教育の改革は、市場原理によって進められてきたが、政府の関心は、教師の役割と権限を規制すること、教師は何をすべきか、どのようにすべきか、その成果をどう評価すべきか、といったことに集中している。そのすべてにおいて、学習者は、同質的で、脱文脈化された、「将来」志向的な存在として捉え直されてきた。すなわち教育は、学校修了時後の教育や、職業訓練労働市場といった、将来ある時点を志向するものとして位置付けられてきた。その基本的な目的は、教育水準を引き上げ、測定や軽量化が可能な学力を高めることにある。そのすべてにおいて、社会的、文化的、物質的に分化した生徒たちの世界は、軽視され、度外視されてきた。一つには、この捉え直しと無視は、個人主義の文化と経済の個人化の結果なのであり、この個人主義的文化と個人化してきた経済は、若者たちがおかれている社会的状況を特徴づけており、さらには、彼らの視野と空間、「行動の地平」(Hodkinson et al., 1996)を構造化する境界線ともなっている。

 いくぶん逆説的ではあるが、個人主義は、教育改革法(1988年)によってイギリスに導入された高度に中央集権的で指令的なナショナル・カリキュラムとそれに付随した評価技術の特徴でもある。「資格付与」の一環として、すべての生徒に同じカリキュラムや同じテストが与えられ、そして、その教授伝達が(少なくとも公立学校の)すべての教師たちに義務づけられている。かくして児童や生徒は同質的に‐メリトクラティックな社会における個人として‐扱われる。したがってもし落第しても、自分を責める以外にすべはない。教師もまた、教授法の訓練を受け、学校教育の特定の時点や段階において、所定の分野をカバーすることが法的に要求されている。教師の成功も、そして学校の成功も、軽量化され、学校同士、教師同士で相互に比較されることになる。つまり、監督・監査のテクノロジー‐査察、リーグ・テーブル、試験結果‐が用いられることになる。それにともない個人化された「譴責」や「辱め」が起こることになる‐子どもも、生徒も、教師も、そして学校も‐すべてがこの過程に巻き込まれている。

 こうした教育と職業の連結から来る一つのジレンマは、教育がもっぱら、今日若者に与えられている経験の質と学校教育のプロセスよりもむしろ、結果と「将来性」に照準をあわせているところにある。そしておそらくこうした「結果」としての労働市場を志向する一つの帰結として、「やる気をなくした学習者たち」が生み出されている。彼らは正規の教育の厳しい要求に今のところは応えられず‐義務教育経験によってときに容赦なく傷つけられた「学習者アイデンティティ」(Rees, 1997)を携えているかもしれないのである。

 不満を抱く若者たちが、主として労働者階級出身であり、繰り返し、一貫して、学校は退屈であり自分たちの人生には無意味であると訴えている‐こうしたことは驚くべきことでもないが、そこには二つの現代的特徴が見出せる。第一に、イギリスでは、経済的分極化がさらに進行している。たとえば、一九九二〜九三年には、すべての子どもの三分の一が貧困のなかで暮らしていると報告されている(Oppenheim, 1998)。貧困は学校における成果に不可避の結果をもたらし、それだけにはとどまらない。第二に、学校は今や「教育水準を引き上げ」、上昇しつづけるというプレッシャーに強くさいなまれている‐ここで上昇とは、より多くの生徒にGCSEでA〜Cの成績を五科目取得させることを意味している。そして結果として、能力別学級編成(streaming)や教科ごとの能力別生徒編成(setting)といった教授上の対応は、教育水準を引き上げるよりもむしろ学力の構造的パターンを強化するであろう。このジレンマを認識している学校もあるが、「社会的に排除された」若者たちに対処する新たな実践をはじめるどころか、義務教育最終学年時の「学力へのプレッシャー」によって、軌道修正の余地は限られている。(執筆時点において政府は、「中退」の危険がある一三歳という若さの生徒たちに照準をあわせることに腐心している)。結果として起きているのは、個人化された学力文化の強化であり、それは今や義務教育の最終段階を支配している。

 教育政策やペダゴジカルな実践は、ともに労働市場の要件に還元された用語で語られている。学校はますます「業績性」の文化に縛られ、そこでは、教える若者の「自己実現」よりも公的な試験における学力のもとに評価されている。教師はますますカリキュラムや試験システムに縛られるようになり、それは生徒のアイデンティティの構造的諸側面を考慮せず‐しかし個々の生徒を測るようにできている‐いよいよ個々の教師をも測るようになっている。差異や多様性を認める教育的実践は「適性」というもっともらしい理由にて行われるにすぎなくなっている。かくして、学校の体制と文化は、個人の価値と個人の学力に焦点を合わせている。そしてこの「生徒価値の経済」が個人の特性を中心におきつつ、構造化されたアイデンティティの効力にとって代わっている。同時に、学校の生徒たち(とその家族)は、自分たちの選択やアイデンティティを個人的に構成されたものとして見るよう促されている。すべての生徒に対してナショナル・カリキュラムを「提供」すること(そしてそれに付随するあらゆる評価装置)‐いわゆる資格付与カリキュラム‐は、どんな構造的な差異をも解消し、メリトクラシーの一形式を増強し、そうすることで、階級化され、「人種化」されジェンダー化された成果を個人的に構成されたものとして置き換えるのである。このようにして、教育達成において構造的に構成された格差があるといった現状は、「自然化」されている。

 教師と学校はこうした「個人化する」プロセスに囚われてしまっている。試験の結果が適切な基準に達しなければ「咎め」られ、学校は、義務教育最終学年における達成結果のナショナル・リーグ・テーブルで甚だしく落ちぶれるような場合は、ステータスの低下、そしておそらくは在籍者数の低下というかたちで代償を払うのである。したがって、教師たちが「テストに向けて教え」たり、境界線上にある生徒たちを指導したり、注意を注ぐことに「値する」個々人に焦点がおかれ、他の関心を捨て去るよう動機づけられていることは驚くにあたらない。