議論は尽くされているか 全国学力調査結果公表について

 全国学力調査の結果の公表という問題が最近クローズアップされている。けれども,それに関する報道やそれに対する反応などを見ていると,冷静に議論をしたり,判断することより,耳目を曳くようなパフォーマンスが先行しているように思う。
 全国学力調査の結果の公表については,全くと言っていいほど議論がされていない。結果公表のメリットデメリットについては,イギリスやアメリカの事例などを基に議論することができる。けれども,結果を公表すべきとする側,結果の公表すべきではないという側の双方が先行事例について検討をし,議論をするということはほとんど行われていない。また,全国学力調査がなぜ必要なのか。全国学力調査によって明らかになることは何か。など全国学力調査自体の妥当性などを検討し,議論することもほとんど行われていない。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080222/1203613243で書いたけれど,近年特に目立つのが「劇薬」が必要という主張。でも,それは大きな間違い。「劇薬」が広範囲に長期間その悪影響を与えない,もしくはその結果について「責任をとる」ということがあれば容認できるかも知れない。2008年1月9日の朝日新聞天声人語で「まずはやってみなはれ」と主張していたけれど,教育改革が必要であるとしても,「劇薬」を「まずはやってみなはれ」でやるべきじゃない。「劇薬」であるからこそ,その副作用,悪影響を押さえ込めるということが保障されるように議論を重ねる必要がある。
 けれども,「改革賛成」「改革反対」というのが「改革をする」「改革しない」という図式のなかでしか議論されないと,改革をすることが目的になって「まずはやってみなはれ」で劇薬が投入される。
 教育に劇薬を投入したら,直接・間接に子どもに影響がある。子どもにとってそれが望ましくないとなったとき,「劇薬」を「まずはやってみなはれ」で投入した大人はどう責任を取るのか。その悪影響をどうやって押さえ込むのか。その議論さえまともにできない。
 改革の結果,悪影響が出ないようにまずはすること。それは多角的な視点から議論が必要。けれども,今の議論は「改革賛成=改革する」「改革反対=改革しない」という議論なので,議論が深まらないまま,改革に反対するなら排除しようとか,改革に反対しても劇薬を投入してやれとなる。それでは議論は一向に深まらないし,問題は解決しない。
 振り子が極端に振れやすい日本の教育。その原因は,冷静に議論し,判断することより,改革することが優先し,それが目的化していることにある。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070509/1178676760で書いたけれど,今の全国学力調査の結果公表の議論は「御破算型教育改革」の路線から抜け出していない。全国学力調査について,もう少し冷静に議論したり,判断できる環境を作り出してほしい。