あいまいな日本の教育

授業にならない! 「青田買い」是正を 大学3団体、企業側に要請

 こういう問題に,本田由紀氏の「棒高跳びモデル」云々といったことが指摘されないのはなぜだろう。この問題はいつか取り上げて書きたい。
 今回書いておきたいのは,こうした話題に対して出てくるのは,企業側の求めているものと大学教育との乖離という問題。でも,そこで考えなければならないのは,両者に乖離があるとして,具体的にどのように乖離しているのかということ。
 これを考えるためにいくつか書いておきたい。例えば,

学士力:国が指針 大学教育の質保証へ−−中教審が答申案

という記事にある「学士力」というもの。学士力なるものを国が指針として示すと記事にはある。けれども,それは具体的にどういうものか。具体的にどういう方法によってそれが育成されるのか。具体的にどういう評価方法でそれが評価されるのか。そして,何よりその学士力なるものをどうやって「共有」するのか,共通のものとするのかということがすっぽりと抜け落ちている。
 もう一つ,t-hirosakaさんのブログで取り上げられていた「知識基盤社会」というもの。

「知識基盤社会」について

 t-hirosakaさんが指摘されているように,「知識基盤社会」という言葉が中教審の答申などによく登場している。そして,その社会を前提として教育改革が進められているように見える。けれども,この言葉も「学士力」と同じように,その社会における教育の姿が具体化されてはいないし,それが共有されているわけでもない。
 これは,「学力低下論争」にも共通している。未だにこの国では「学力」というものが具体化され,共有されずに,都合勝手に様々な学力観が乱立している。それで,学力重視だと言ってみたり,大きな転換であると大騒ぎしてみたりしている。
 OECDPISAやDECECOのキーコンピテンシーは,日本のような「あいまいさ」ではなく,教育像や学力観,その前提となる社会観を具体的にしている。PISAの評価の枠組みを読むとその具体性に驚かされる。なぜ具体性が必要なのか。それは「共有化」されるためだ。
 PISAは各国のカリキュラムの枠に拘束されない。そのためには,具体的に学力観や評価方法を示さなければならない。そうでなければ,国際的な指標とはならないし,何よりも共有化されない。
 マスコミは時として,PISAなどを話題にするとき,「世界標準の学力」などと言ったりもする。けれども,それは間違いでPISAは世界標準ではなく,国際的な機関が示した一つの指標に過ぎない。日本はPISA調査に参加している。けれども,PISAの学力観を一度も日本の教育における学力観として「明確に」位置づけたことはない。それにも関わらず,「応用力」云々という言葉が溢れている。
 日本の教育は「あいまいさ」が長所でもあり,短所でもある。だからこそ,「何々力」という言葉が溢れ,さまざまなテストが行われ,その後の対策に追い回されている。
 教育再生井戸端会議や教育再生井戸端懇談会などという組織がいくらあっても,そこでの議論は,あいまいさを前提とした放談であって,具体的な社会観や教育像,学力観ではないし,それらが議論されたとしても,それをどうやって共有していくかという議論が抜け落ちている。その上,上で決めたら何とかなるという楽観的な考えや,学習指導要領などで規定していけばいいという考えが蔓延している。そこには,PISAなどに見られるような社会と教育との関係を捉え,そこから政策を打ち出し,それを共有していこうという視点はない。
 冒頭の話題に戻せば,企業の要求と大学教育との乖離があっても,両者がそれぞれ考えている教育像や学力観を「共有」しようという動きが活発化しない。本田由紀氏の議論はその契機となるものだけど,大学教育の話題で出てくるのは「学士力」で大学教育の質を維持するというものばかり。
 企業が求めているものがあるなら,それはどんな社会を前提としているのか,そのために必要な技能や学力,教育は何か。そういうことをもっと議論を重ね,共有していけばいい。それは大学側にも同じことが言える。
 PISAなどから学ぶべきことは,教育と社会との関係をきちんと考えるという姿勢であり,そこから具体化していくという姿勢。
 PISAの順位を気にしたり,世界何番目になるという目標だけを掲げ,具体性のない教育改革やその議論。日本の教育の「あいまいさ」の短所ばかりが目立つ。そうした状況から抜け出さなければいけない。