「例示」に振り回される時代に

沖縄戦:小学校の新指導要領解説書に、初めて明記−−文科省

 この問題については子安潤氏が

強制の反復か

で取り上げて論じられている。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080319/1205865097http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070624/1182642429で書いてきたけれど,学習指導要領や教科書,今回の記事に取り上げられている学習指導要領の解説書に何を記述するかという問題は「公的知識」をめぐる「ポリティックス」の問題だ。けれども,それはあまり意識されていない。そうした状況下では,おそらく今回の「例示」がなぜ問題視されるのか理解されにくいだろう。
 今後起きてくることは,「例示」が「例示」ではなくなるということ。「例示」とされているかぎり「例示」することは容易だ。容易だからこそ,その時の状況(ポリティックス)の影響も受けやすい。「例示」が「例示」で無くなったとき,そこで働いた「ポリティックス」はそのまま現場に反映されていく。
 「例示」が「例示」ではなくなる状況が進んでいくとき,もう一つ起こることがある。それは,はみ出しを許さない状況がより強まるということ。「例示」されたのに「例示」されたことをやっていないとして批判され,それが当然視され,例示がいつの間にか「必修」へと変わっていく。そして時々,例示する側の都合によって「例示」は「必修ではない」として彼らは逃げ道を用意する。
 「公的知識」の問題は政治的な問題だ。「例示」という形で安易に公的知識をめぐるポリティックスが反映されていく。それが,意識されないうちに進んでいく。
 何が例示され,何が例示されないのか。例示が例示でなくなったとき,現場はそれに振り回されることになる。例示に振り回される時代だ。