考えない子どもと価値判断できない子ども そして 幻想を抱く大人たち

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080518-00000909-san-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080518-00000061-jij-soci
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080518-00000077-mai-soci

 子どもがなぜ考えるのか。子どもがなぜ価値判断できるのか。そうしたことをなぜ考えないのだろうか。
 以前,

■価値判断を他人に依存させる教育なんか要らない

で書いたことと重なるけれど,教科書には真実や事実しか書いてはいけないという主張がなされ,教科書の記述をそのまま子どもに教えなければならないという主張がなされる。それは,単に子どもが考える機会を与えず,子どもが価値判断する機会を与えずに,情報を鵜呑みにさせられているだけ。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070621/1182375641で書いたように,教科書は絶対的な物でではない。教科書の記述,特に今回取り上げたような物などは「政治的妥協の産物」だ。それを「真実」であるとか「事実」であるとし,そこで言われる「真実」や「事実」なるものがどうやって確定されたのかを子どもに教えることなく教えられていく。それは馬鹿げたことであり,危ないことだ。
 子どもは教科書の記述を信じ,それが事実であり真実であると主張し続けた。その姿を滑稽だと思うだろうか。それとも,賞賛するだろうか。
 教科書に記述されていることは,様々なところで議論され,検討され積み上げられてきたものだ。その中には,未だに論争されている物も当然ある。だからこそ,子どもには教科書の記述を絶対視させずに,様々な見方や考え方があるなかでどう考え,どう判断するのかという機会を与えるべき。そうすることで,子どもが将来,これまで積み上げてきたものを議論し,検討して,またさらに積み上げていく役割を担えるようになる。そうして,事実や真実が段々と確定されていくことにもなる。
 今回のようなことが常態化するなら,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061115/1163521948http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061122/1164137279で書いたようなことも常態化するだろう。
 教師が,子どもが考えたり価値判断する機会を深く考えることなく奪うようなことになっても,それをおかしいとは考えなくなるだろう。もし,そこで批判が出てくるとするなら,教師のそうした行為に対してではなく,教師が主張すること,教師が用いた物に対する批判だろう。そして,それは教師の主張や用いる物が自分の主張や用いるべきと考える物と合えば批判されないし,合わなければ批判されるというところに留まるだろう。
 教科書や学習指導要領に幻想を抱く大人と,そのために考える機会や価値判断する機会を与えられずにただ手を引かれるままに歩く子ども。大人は子どもを未熟者扱いし,不安を抱き,いつまでも手を離そうとしない。そして,子どももそれをおかしいとは考えない。子どもは,いつまでも,考えたり価値判断する機会を与えられない。そうしたことが「教育」で行われることは間違っている。