評価に関する誤解と誤用と偏見と

「1」がつかない!? 公立中で通信簿の“インフレ”

通信簿に“インフレ現象” 評価「1」つかない!?


 以前から,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070528/1180333941http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070131/1170214060http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060809/1155114539http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060529/1148878048などでも「評価」について取り上げてきた。繰り返しになる部分もあるけれどもう一度書いておきたい。
 まず,いわゆる絶対評価(目標に準拠した評価)は現状の入試では使えない。そのごく当たり前のことと思われていることがなぜか通用しない。その典型的な例が,今回取り上げている記事やhttp://diamond.jp/series/dw_special/10011/などの記事のようなもの。
 これらに通用するのは,絶対評価の限界を指摘しているようで,その限界を無視して絶対評価相対評価の枠の中に強引に入れ込んでしまおうとしているところ。それでは絶対評価が機能しない。
 岡本薫氏はhttp://sankei.jp.msn.com/life/education/080409/edc0804090805001-n1.htmで次のように指摘している。

 相対評価絶対評価に変えたことによる混乱も目標設定の不備が原因だ。
相対評価とは「目標と子供」ではなく「子供と子供」を比較しているだけだ。「目標と子供」を比較する絶対評価の方が当然正しい。しかし、「目標があいまいなため比較できない」ので混乱が生じるのである。相対評価は「目標のあいまい性をごまかしてくれる隠れみの」なのだ。

岡本薫氏は全国学力テストに関しても

 全国学力テストも実は「目標としての得点分布」が示されていないので、結果としての得点分布が出されても比較すべき対象がなく、現状の良しあしの評価ができない。

ということを指摘している。
 松下佳代氏は,[asin:4820803131:detail]のなかで,

 「客観テスト」は本当に客観的なのかどうかを考えてみましょう。「客観テスト」の「客観」とは,採点の信頼性が高いということです。確かに,正誤問題,多肢選択問題,短答問題(答えが一つに定まるもの)では,誰が,何回やっても,同じ採点結果が得られます。しかし,客観テストであっても,どんな問題にするかとか,得られた点数をどう見るか,といったところには,必ず主観(価値判断)が入り込んできます。つまり,どんなかたちの評価であっても,そこには必ず評価者の主観(価値判断)が入り込んできます。

と指摘している。
 相対評価の通知表が「客観的」であると捉えられているけれど,それは岡本氏の言う「隠れみの」の存在によってそう錯覚しているに過ぎない。
 また,冒頭でも少し書いたように現在の通知表の評価は絶対評価相対評価に無理矢理押し込めているのでそれが機能していない。そうしたことを踏まえないまま,絶対評価に対する評価が下されるのは間違っている。
 先日,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080215/1203010462で「AO入試」のところでも少し指摘したけれど,それぞれの評価方法にはそれぞれメリットと限界がある。その限界を無視して評価方法を適用することは,その評価方法の誤用であり,その評価が機能しないことは十分に考えられる。また,もし,何らかのデメリットが発生したならば,そのデメリットをきちんと押さえ込むことを考えるか,新たな方法を模索していけばいい。
 全国学力テストでよく「自分(子ども)の位置を知る」ために必要なんだとか,そこに価値を見出して,それを期待し,全国学力テスト反対論を批判しているのを見聞きする。けれども,岡本氏が指摘しているようにPISAなどとは異なり,全国学力テストでは「問題作成の基礎となるべき「具体的達成目標」が定められていない」。そうした状況で,順位を重視する,相対評価的に結果を解釈することは,「「子供と子供」を比較している」ということに他ならない。そうしたものから,評価本来の目的である「次へとつなげる」ための対策などが導き出せないのは当たり前のことだ。
 評価がなぜ行われるのか。松下氏は同書の中で,パフォーマンス評価はかなりの時間と労力を要するものであるということを指摘し次のように述べている。

 パフォーマンス評価は,単なる評価法にとどまりません。解答(パフォーマンス)から,それぞれの子どもの個性的な思考や表現を読み解き,評価していくには,教師の側に「鑑識眼」が要求されます。逆にいえば,パフォーマンス評価は,子どもの学びについての鑑識眼を鍛えていく機会を提供してくれます。また,パフォーマンス課題やルーブリック作成は,そのまま教材研究の場になります。そして,これらの仕事を,1人ではなく共同で行っていくことによって,教師間の同僚性も築かれていくのです。

 松下氏が述べていることは,評価が教師にとってどういう意味を持つかということだ。松下氏が述べているようなことは通知表や全国学力テストの場合においても軽視されたり見過ごされている。
 子どもと評価との関係で考えるならば,子どもにとって評価は自分の現状を把握するためだけでなく,次への課題も示してくれる。しかし,現状の評価はそうしたものになっていない。
 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070423/1177271321などで書いてきたけれども,入試や内申書などの「Evaluation」と学力テストの「Assessment」の違いを明確にせずに,子どもを評価している。また,評価の結果をきちんとフィードバックする仕組みがない。子どもたちは,評価の結果を相対的に解釈することでその不備を何とか補おうとしている。Assessmentの結果はその評価の枠組みの中で解釈する必要がある。その結果をただ比較するのでは結果の解釈ができないし,そこから課題を見出すことはできない。
 何度も引用しているけれども,苅谷剛彦氏は,

 「学力調査の時代」はうってかわって、調査をすればよしとする風潮が蔓延しているようにみえる。それが、やったらやっただけの調査の量産を許している。

と指摘している。学力テストも通知表も「評価をすればよし」とし,その評価方法の妥当性などをきちんと問うこともなく,結果をその方法ではできないことを「こうなるはず」といったところから解釈を行い,その結果を論じている。
 評価は,子どもにとっても教師にとっても「次につなげる」「成長するため」に行われる。その評価について,もう少しつっこんだ議論が行われていく必要がある。