ゆとり教育からの脱却という言葉で思考停止するという愚かさ

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080330/1206811879にコメントしてくださった皆さん。ここを訪れてくださる皆さん。とても感謝しております。今回はどうしても書きたいと思ったので一時復活しました。今後はまた更新が滞ると思います。

 マスコミは改訂される学習指導要領が一部前倒しされることを報道している。それを読んだり,それに対する反応を見ながら「ゆとり教育からの脱却」という言葉に思考停止した今の状況はおかしいと感じている。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070616/1181959073http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070511/1178815464で書いたこととも重なるのだけどもう一度書いておきたい。
 「ゆとり教育の被害者」という言葉を見聞きする。でも,子どもはいつの時代でも被害者だ。今回改訂された学習指導要領で学ぶ子どもも被害者だ。いわゆる「ゆとり教育」だけが被害者を生み出したのではない。その「ゆとり教育」もそれからの脱却を掲げる今回の学習指導要領も大差がない。それは,慎重さや丁寧な議論というものが両方とも欠けているからだ。
 マスコミは台形の面積が復活したとか,授業時数の増加など「表面的な部分」だけを報じている。台形の公式が復活したというけれど,台形の公式をただ記憶させるだけなら公式の復活は大きな違いだろう。けれども,台形の公式がなぜそうなるのかということをきちんと教えようとするなら,現行の学習指導要領と大差はない。
 では,その学習指導要領はどうした検証過程を経て,どういう根拠に基づいて改訂されたのか。いわゆる「ゆとり教育」の最大の問題は,それまでの教育の問題点をきちんと明らかにし,それを改善する形で改訂がされなかったこと。授業時数や内容の削減は,そのプロセスを欠いたために批判されるようなお粗末なものになった。今回の学習指導要領でもそれは全く変わっていない。
 「ゆとり教育からの脱却」という言葉は,表面的な部分の変化だけを意味している。けれども,小さな変化が大きな変化であるかのように捉えられている。それは,学力低下論が学習指導要領の表面的な変化だけを捉えて議論されてきたからだ。
 「ゆとり教育からの脱却」という言葉は,見切り発車しかしない,慎重さや丁寧な議論,丁寧な検証を欠いたまま進められる教育改革の問題を改善してこそ使われるべきものだ。
 「ゆとり教育」という言葉も「ゆとり教育からの脱却」という言葉も,本当に改善すべき問題から目を反らすのに大いに貢献している。
 全国学力テストという教育行政が本来評価される側にあるはずのものさえ,子どもの学力や学校や教師の評価の手段であると巧妙に言い換えられ,教育行政は問題を抱えたまま変わることはない。
 「ゆとり教育からの脱却」という言葉に思考停止した今の状況はおかしい。今必要なことは,教育が子どもを犠牲にするものであるからこそ,慎重さや丁寧さを最優先することだ。慎重さや丁寧さを軽視する今の状況を放置することは被害者にとって不幸なことだ。学習指導要領の前倒しより先にそれをなぜ考えないのだろうか。