何でもかんでも規定してしまえってさ

【正論】高崎経済大学教授・八木秀次 教育基本法の理念反映せず

 学習指導要領で何もかも規定してしまうつもりだろうか。学習指導要領で規定してしまえば,その違反者を取り締まることも容易だからね。
 学習指導要領で規定し,教科書検定でそれに沿った教科書にする。いったい何処の国の発想だろうか。教科書検定制度があるから,かの国とは違う?まさか,そんな子どもだましのようなことを言うつもりだろうか。
 学習指導要領とか,教育基本法とか,そういうものを用いて教育を硬直化させることのデメリットを考えているだろうか。学習指導要領に規定されていないからこれはやれませんよとか,これはやりませんよとか,そういうことが変化が早くて激しい社会で通用するとでも言うのだろうか。変化に合わせて次々と変更するから大丈夫などという寝言でも言うつもりだろうか。
 アップルは,[asin:4887131925:detail]の中で次のように指摘している。

ナショナル・カリキュラムは知識の政治的統制のための装置である

 また,長尾章夫氏は同書の中で次のように指摘している。

わが国においては、共通の文化、共通のカリキュラム、共通の民族、共通の日本といった同質性(homogeneity)が暗黙のうちに前提され、肯定されている場合がしばしば見うけられる。そして暗黙の同質性を前提にした多様化は、それがいかに異質性(heterogeneity)を含むかにみせかけつつも、その実は単なる同質性のなかでの差異化にしか過ぎぬものになっていく。そしてそのような差異化は多様性が本来的にもっているダイナミズムを持つことができない。そればかりか、暗黙の同質性を前提にした単なる差異の一面的強調は、その前提としている同質性への目をくらませ、それへの批判を封じこめていくことにすらなっていく。そこではまさしく利害の不平等が隠された形で巧妙に再生産されていくだけなのである。

 http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070206/1170723861で引用したが松下良平氏は次のように指摘している。

一見中立的だが実際には現行の政治システムや経済システムの維持と正当化に貢献する知識や態度が、「学習する側の利益になる」という名目で教え込まれる。そのため圧倒的多数の「国民」(子ども・親・教師)は、「自分のためになる」「子どものためになる」という理由で、その政治活動としての学校教育を、政治活動であることを意識しないままに受け入れてきた。しかも、学校教育が自己目的化するにつれて、「国民」はその政治活動=教育を自ら積極的に求めるようにさえなる。その結果「国民」は、国家や経済界の立場や活動に抵抗しないことを余儀なくされるというよりも、自ら進んでそれに抵抗しなくなった。

そして,次のように続ける。

このようにして生じたのは、教育を受けた者の政治意識の剥奪である。ここでいう政治意識の剥奪とは、政治が政治であることを隠して強制され、その強制を自発的に受け入れるという現実の中で、子どもや親だけでなく教師も、政治に対して無関心になり、無知になったことである。すなわち、自らが政治に翻弄されているにもかかわらず、そのことに問題関心や問題意識をもたず、その蹂躙状態に甘んじるようになったことである。

 学習指導要領というものが,非常に単純化されたイメージで語られる現状がある。それは,学習指導要領は「基準」に過ぎないのだというようなものだ。しかし,学習指導要領はアップルが言うように「知識の政治的統制のための装置」であり,その働きは強化されつつある。そうしたなかで,公的知識をめぐるポリティックスから目を反らし続けることは,松下氏の言う「政治意識の剥奪」された状態を容認することと等しい。学習指導要領が誰のためにどのように変えられようとしているのか。そのことにもっと関心を持つべきだ。