教育界の無責任という批判

授業時間を増やすと学力が向上するか、の問いに答えられない教育界の無責任度

 まず,

 もしこのような外部からの要因がなければ、日本の教育は批判にさらされることなく、ゆとり教育を「悠々」と続けていたかもしれません。さらに授業時間を減らしていた可能性だってあるでしょう。日本の教育界は果たして、教育の現状を調査・評価し、よりよい方向を目指すという機能をもっているでしょうか。

 教育界の事情ですが、基礎資料を得るための全国学力調査は1966年に中止され、全面的に再開されたのは学力低下が問題になった2007年とされています。一方、2006年には1966年以来40年ぶりに教員の勤務実態調査の全国調査が決まりました。

 学力調査は学校間の過当競争になるという理由で、勤務実態調査は管理強化につながるという理由で、どちらも日教組の反対によって中止されたと言われています。

 言うまでもなく教育は理論通りにはいかない分野ですから、その成果を評価しながら試行錯誤を繰り返し、方向を見つけ出すという作業が常に必要です。教育の目標は学力だけではないにしても全国的な学力調査が重要な意味を持つのは自明でしょう。

 授業時間と内容を大きく減らす、実験的な「ゆとり教育」を実施する以上、その評価の仕組みは当然必要と考えられます。仕組みがなかったのか、あったけれど機能しなかったのか、知りませんが、外部から学力低下を指摘されるまで表面化しなかったという事実は教育界に当事者能力にかかわる深刻な問題があることを示唆しているように思います。

 教育の結果を評価するための調査を否定・軽視してきた人々に教育全体に対する責任感があったのでしょうか。自ら結果を評価するという基本機能の欠如を温存してきた現在の教育システムを見直す必要はないでしょうか。

と主張されていることについて。
 教育施策の策定から実施,評価に至るまで文部科学省が最近よく主張するPDCAサイクルは全く機能していない。また,過去においても機能していなかった。それは,全国学力テストにおいても同様。教育施策を評価するという役割を全国学力テストは負うはずなのに,その役割を負わせようとしていない。だから「全国的な学力調査が重要な意味を持つのは自明でしょう。」などという主張は間違い。
 また,「評価」はその目的によって適切な規模も方法もその結果の解釈も変わってくる。その評価の枠組みについてきちんと吟味することなく,結果だけを見て議論しようとする現状がある。たとえば,PISAの調査は,いわゆる「ゆとり教育」を評価するのに適切であるかどうか,また,西村氏などの主張する「学力低下論」が依拠するものは教育をきちんと評価できるものかどうかをきちんと吟味する必要がある。そうした過程を経ないで,学力低下論や教育改革の必要性が主張され,十分な検証もないまま改革は進められている。
 http://www.iwanami.co.jp/shiso/0995/kotoba.html広田照幸氏が「教育学が、他の学問分野との間で共有する言葉を失うようになってから久しい。」として現状を批判している。学力低下論争や教育基本法の改正の問題などを通して積極的に教育の専門家が全面に出てくるようになっている。けれども,まだ十分だとは言えない。教育の問題についてそれを研究する立場,実戦する立場,様々な立場からもっと積極的な発言が必要だ。
 けれども,その場合に,教育の問題においてなぜか自明であるとか,当たり前であるとして,議論をしない,問題を軽視するという現状を打開しなければいけない。
 苅谷剛彦氏は[asin:4061498665:title]の中で,

教育のリフォーム(改革)やリニューアル(再生)を大仰に語る前に、日本の教育の現状と、その可能性や限界を冷静に見つめ直すこと。設計図を書き直す前に、もう一度、リフォームの必要性やその方向性について考え直すこと。そして、どうしてもリフォーム好きになってしまいそうな自分たちの体質を自覚し、とらえ直すこと。そういう落ち着きを取り戻すことが、今、強く求められている。

と主張している。教育のリフォーム(改革)やリニューアル(再生)が大仰に語られ,「やってみなはれ」で見切り発車を肯定し,現状の把握も検証も欠いたまま,教育のリフォーム(改革)やリニューアル(再生)を推進する。そうしたことをきちんと批判すべき。
 教育界に問題がないとか,無責任ではないと言うつもりはない。教育界には問題もあるし,無責任な側面もある。そうしたことを変えていく必要がある。