社会に目を向けた議論を

学校選択制は、「ダメな学校」を構造的に作り出す
?「教育の質の選択」という神話

 学校選択制やバウチャーに関する議論を眺めながら思うことは,「社会」の視点がないこと。そのために本末転倒した議論が当たり前のように語られているということ。
 学校選択制もバウチャーも社会に規定される。学校選択制やバウチャーの導入を主張する側は,それらの導入が社会を変えると思っている。もっと正確に言えば,それを導入することで現状を打破できる,特に改革に反対する勢力への痛打となると考えている。けれども,それは間違っている。なぜなら,学校選択制もバウチャーも現状を変えるのではなく,現状に大きく規定されるものだからだ。
 ここで一つ例を挙げておきたい。それは,wakei氏が,
http://blog.livedoor.jp/wakei_oot/archives/22247521.html
http://blog.livedoor.jp/wakei_oot/archives/22319247.html
http://blog.livedoor.jp/wakei_oot/archives/23043578.html
などの「教育の自由ノート」という一連のエントリーの中で取り上げておられるオランダの場合だ。
 wakei氏は,

オランダでは憲法で教育の自由が保証されているが、そのポイントは、国民が学校設立の自由、選択の自由をもち、学校は教授の自由をもち、公立学校と私立学校は財政的に同じ基盤をもつ、というように構造化されている。

と指摘する。オランダにおける学校選択制は日本における議論とは全く異なるとらえ方ができる。オランダでは学校選択は認められた権利であり,その行使も当然認められている。しかし,日本ではオランダのような議論にはならないし,オランダと同様の学校選択が行われない。その理由は,「社会」の状況が異なるからだ。
 オランダと日本では学校選択制の導入が主張される文脈が異なる。しかし,日本では学校選択制を権利の拡大として語り,それをメリットとして掲げている。オランダの例を見るとそれがいかに空論であるか,いかにいかがわしいものであるかがよく分かる。彼らの言う権利の拡大は,オランダにおいて認められている権利と同様のものではなく,現状に強く規定され,現状を追認する中でのみ認められる権利だからだ。学校選択制で認められる権利は,「格差」を前提としなければならないし,その権利の行使ができない地域があることを前提としなければならない。その責任は常に個人の自己責任になる。そういった制限があってはじめて認められるものだ。
 バウチャーも一見「格差」を是正するものであるかのように見えるし,そう主張される。けれども,バウチャーは広田氏が,

教育バウチャーは、現在の条件・状況(初期条件)+導入しようとしている制度のあり方(改革案)の二つによって、生じる結果は大きく違ってきます。

と指摘するように現状に大きく規定される。そのことがきちんと理解されないまま,バウチャーの導入が教育を変えるというような本末転倒した主張が行われている。
 先日,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20071126/1196022373などで,「社会」という視点について少し書いた。
 教育改革の議論,特に近年の議論では,提起される教育改革案の多くが社会に規定されるものであり,多くが社会の現状をより強調するものであるにも関わらず,社会という視点から論じることがない。
 教育改革が,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20080222/1203613243でも書いたけれど,単純化された図式の中で議論されている。それが社会という視点を欠く要因になっている。
 もし,日本がオランダのような社会を目指し,そういう社会ができあがった上で,出てくる学校選択制やバウチャーならば,そこで行われる議論はもっと意味のあるものになるだろう。けれども,学校選択制やバウチャーに反対する意見を,改革阻止,現状維持派として批判している間は議論は噛み合わない。
 どういう社会を目指し,その上で教育をどうするのか。または,この教育改革を実現する,デメリットをきちんと押さえ込むにはどういう社会にすべきか。そうしたところから考え,議論してみたらどうだろう。