何も恐れることはない 何も見えていないのだから

 全国学力テストに犬山市教委が不参加を決めたことに対して,彼らは自分たちが評価されること,自分たちの実態が明らかになることが怖がっているのだと言い,そうでなければ全国学力テストに参加せよということが言われている。
 何を恐れるというのだろう。全国学力テストの結果から何が見えるというのだろう。見えないものが見えたといい。分からないものまでも分かるという。全国学力テストから何が分かり,何が見えたというのだろうか。
 PISAなどの結果がなぜ信頼されるのか。それは,これで何が見えるのか。見えないものは何か。それから分かることは何か。分からないことは何か。それを明確にしているから。そして,見たいもの,明らかにしたいものがあれば,そのために試行錯誤をしていく。だから,信頼されている。同じことが全国学力テストに当てはまるだろうか。
 また,自分たちがねらっていること,進もうとしていることがあって,その成果が全国学力テストでは見えない,明らかにはならないとなれば,それに参加する必要性はない。そんなものに参加して「実証せよ」と言われてもそれはできない。
 学力テストの結果,何が見えたのか。何が明らかになったのか。それをまともに議論することなく,検証することなく,学力テストの実施だけが推進されていく。そんな状況で,何を恐れる必要があるというのか。
 見えないことが見えたと言い。その一方で見ようとしないものがたくさんある。全国学力テストは,学校のことも教師のことも何も見せていないし,見ようともしていない。子どものことも何も見えないし,見ていない。
 そういう全国学力テストをやるよりも,いろいろな視点で教育のこと,学校のこと,教師のこと,子どものことを見つめてみたらいい。そして,議論でも対策でも必要なことをやればいい。