「公教育」の意味をきちんと考えること

橋下大阪次期知事が大胆提案、学力別クラス編成導入を

 前にも書いたけれど,「学力向上」というのがつくと「それはいいじゃないか」で議論もまともになされずに進んでいく。これもそうなるのだろうか。
 http://blog.goo.ne.jp/madographos/e/04b01300db0fabd6efb5bbd23f7909acでmadographosさんが,「公教育」について述べられ,私立学校への誤解を指摘されている。
 今回の橋下氏の提案は,単に教育の私益化を推進するだけであり,「公教育」の意味を誤解したものだ。
 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20060824/1156376251で教育の公共性について

教育の公共性の根元は、公的な機関が運営するシステムだからではない。教育は私益のために存在するのではなく、公益のために存在するもの

だということを書いた。
 橋下氏の提案は,公的な機関の運営する学校で教育を私益化するということであり,それは教育の公共性とは相容れないし,それは公教育というものではない。
 日本で今進んでいるのは,公教育の再生ではなく公立学校の再生であり,そこでやっていることは,公的機関の運営する学校を使って教育を私益化すること。公的な機関が運営するために,個人にとっては低コストでそれができる。そして,それを利己主義と批判することもない。
 教育の私益化は利己主義だ。そこでは教育の格差は能力差であるとしか認識されない。教育は個人の利益のための道具・手段の一つとして認識される。それは,教育に期待される公共性とはかけ離れたものだ。
 学力を獲得するために教育の私益化が本当に必要ならば,ホームスクールなど私立学校を含めた公教育とは異なる教育の私益化のための制度の整備について本気で議論をすべき。そういう議論もせずに,公教育の意味を誤解し,歪曲し,何もかもボーダレス化してはいけない。