学ぶということを見つめ直す

【風】「ゆとり」が放棄した「教育」

【風】「ゆとり」が放棄した「教育」

 「本来、勉強は訓練です。苦手な子でも、何度も繰り返し書かせ、読ませれば、必ずできるようになる。ゆとり政策のもと、こうした指導をする先生が少なくなり、小学3、4年くらいから授業にもついていけなくなったようです」

 手紙の中で元校長は《勉学より遊び、規律より放縦を好む子供に対し、生活習慣を身につけさせ、生きるために必要な訓練を施す。それが教育だったはず》とし、《この4半世紀、ゆとり教育と称して日本の教育はこれを放棄してきた》と主張する。

 以前,http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070831/1188514263で紹介した松下良平氏の主張をもう一度引用しておきたい。

 近代学校が登場するはるか以前から存続し、今日でも人間の成長にとって最も大きな影響力をもっているのは、次のような意味でのより根源的な学びと教えである。すなわち、道なき道で、未知の他者や出来事と出会い、そこで生じた困難と全身全霊を傾けて格闘することによって、結果として一定の知識や技や知恵を身につけ、他者や世界との関係を築き、自分を築き上げていく学びであり、それを傍らで導き、支えるものとしての教えである。

 そこでは人びとは、学びを通じた〈知や技の向上=世界が広がること=他者との交わり=自己の成長〉に深い悦びをおぼえる。だがその悦びは、自己を取り巻く世界や他者と格闘したり、自らの力で知や技をつくりだしたり、古い自己から脱皮したりするときの苦しさや痛みから切り離すことはできない。そこでは"教師 "に必要なのはまず、学ぶ者が学びの苦しみや辛さから目を背けないように励まし、支えることだといってもよい。

 元校長は,

《勉学より遊び、規律より放縦を好む子供に対し、生活習慣を身につけさせ、生きるために必要な訓練を施す。それが教育だったはず》とし、《この4半世紀、ゆとり教育と称して日本の教育はこれを放棄してきた》

と主張している。元校長のイメージする「教育」なるものにおいては,松下氏の言うような「学び」と「教え」は否定され,「教育」はまさに「訓練」となり,子どもに単に苦役を強いるだけのものでしかない。いわゆる「ゆとり教育」においても松下氏の言う「学び」と「教え」は否定された。どちらにおいても学びは貧困なイメージでしか捉えられていない。
 学びは訓練ではないし,楽をさせることでもない。学びをもう一度見つめ直して,貧困な学びのイメージから脱却することが必要だ。