なぜ「育てる」ことを最優先しないのか

成果主義は教育をどこに連れて行く

 もしかしたら,広田氏はあえて論争を巻き起こすためにこうした論を展開しているのかも知れない。様々なコメントが寄せられていて,いろいろと考えさせられる。
 まず,「教員を評価する」という場合,次のような目的・側面がある。まず,「教員を育てる」という目的,もう一つは「教員に優劣をつける」という目的。そして,今回広田氏が言っているのは「教員に優劣をつける」という目的で教員評価が実施され,または,実施されようとしているということ。
 きちんと指摘しておかなければならないのは,「教員に優劣をつける」ための評価では教員は育たないということだ。これまで(http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/searchdiary?word=%b0%e9%a4%c6%a4%eb)述べてきたように「育てる」ということを前提とした評価でなければ教員は伸びないし,質は向上しない。
 「優劣をつける」ことが教員の質を向上させると考えられているかもしれないが,それは単に優劣をつけて,駄目だとされた教員を排し他の教員と取り替えて,それでよくなったと考えられているだけであり,全体的な底上げには実際にはつながらない。
 成果主義,何主義であっても「育てる」ための評価でなければ教員は育たないし,質が向上することはない。「替えはいくらでもいる」「排除せよ」ということが前提となった評価は教員を育てないし,育てることを軽視し,結果のみを重視することになる。
 教員の質の向上が急務というなら,まず「育てる」ことを最優先し,そのための評価を導入し,その評価を次に生かす仕組みや環境を作るべき。そういうことをやらないで「成果は?」といくら問うても意味がない。
 最近は,「育てる」ことを軽視しておきながら,結果さえ見ればそれまでのプロセスも見えてくるのだというおかしな論が跋扈している。「評価」はプロセスの一つにすぎない。「評価」からプロセスが見えるのではない。プロセスがあるから評価できるのであり,評価が生かされる。そこには「育てる」という視点が不可欠であり,「育てる」ことを重視していなければならない。
 育てることを重視せず,「優劣をつける」ことに夢中になっている。それは教員に対してだけではなく,子どもに対しても同じことが言える。そうした状況のなかで行われていることは「育てない評価」でしかない。「育てる」ことを最優先した評価をまずはやっていくべきだ。

 大村はま氏の「優劣のかなたに」という詩は,「評価する」ということの意味を考えさせてくれると思う。この詩にあるような考えが広まってほしいと思う。