いつまでたっても問題は解決しない

【主張】指導力不足 だめ教師の実態解明急げ

 授業や生徒指導が満足にできない「指導力不足」教師について文部科学省が認定基準など指針づくりを始めた。遅まきながら、問題教師、だめ教師の正確な実態把握に乗り出したことを歓迎したい。

 この社説のような議論が問題解決に結びつかないということは,子どもの学力低下の問題を考えてみるとわかりやすい。
 子どもの学力低下が主張され,こんな漢字も書けない。こんな計算もできないと何度も繰り返し報道され,そのたびに実態把握が必要だといわれてきた。そうして,導入されたのが各地で実施された学力テストであり,全国学力テストだ。しかし,それは批判をおそれた教育行政側のパフォーマンスでありポーズであった。そうした非日常的なイベントを実施することで自分たちはきちんと取り組んでいますよと主張するために実施された。そのもくろみは見事に的中し,そうしたイベントに多くの人が目を奪われ,それに期待をかけ,非日常性しか求めなくなった。そうして日常的な取り組みは軽視され,子どもの学力の問題はいっこうに解決していない。
 これは教師の指導力不足の問題にも当てはまる。今回の社説のように実態把握が主張され,こういう教師がいるということが報道され,教員免許の更新制,教職大学院,師範塾といった非日常的なものが続々と作られている。その結果,日常的な取り組みには目が向けられず,日常的に教師を育てる,教師が育つ機会や環境が脆弱化している。
 子どもも教師もいつも学び必要がある。それは学力が低下しているとか指導力が低下しているからではない。http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20070901/1188605692フィンランドの教育について少し紹介したけれど,その中で福田氏は,「誰もが皆、知識は不十分なのだ。だから、学習し続けるのだ。」と述べている。子どもも教師も「不十分なのだ。だから、学習し続けるの」であり,それは日常的なことでもある。日常的に学ぶ機会や環境が用意されることなく,非日常的なものがいくつ用意されてもそれは問題解決には結びつかない。
 そして,子どもも教師も「成長するもの」であることを忘れないことが必要だ。「成長するもの」であるからこぞ時間が必要であり,その期間に「無能力」というレッテル貼りが行われるのは間違っている。
 子どもの学力低下や教師の指導力の低下を,この社説のような取り上げ方をすることは,批判したり揶揄するための材料となったとしても,問題解決にはつながらない。