フィンランドは「反「学力」」

[asin:4750507105:detail]より引用。

 なぜフィンランドがPISA2003でうまくいったのか。フィンランド国家教育委員会は、次のように公式に説明している。
1.家庭、性、経済状態、母語に関係なく、教育への機会が平等であること。
2.どの地域でも教育へのアクセスが可能であること。
3.性による分離を否定していること。
4.すべての教育を無償にしていること。
5.総合制で、選別をしない基礎教育。
6.全体は中央で調整されるが実行は地域でなされるというように、教育行政が支援の立場に立ち、柔軟であること。
7.すべての教育段階で互いに影響し合い協同する活動を行うこと。仲間意識という考え。
8.生徒の学習と福祉に対し、個人に合った支援をすること。
9.テストと序列付けをなくし、発達の視点に立った生徒評価をすること。
10.高い専門性を持ち、自分の考えで行動する教師。
11.社会構成主義的な学習概念(socio‐constructivist learning conception)。
 最後の項目、「社会構成主義的な学習概念」という表現には驚かされる。このように言っても通用する社会ということは、教育界や親に相当水準の理念的な一致が作り出されているということに他ならない。後日、二〇〇五年一〇月の第二回PISAセミナーで、イルメリ・ハリネン(Irmeli Halinen)国家教育委員会普通教育局長に質問してみた。「社会構成主義的な学習概念」というのは高度な概念だと思うが、これは教育界の「共通理解」なのか、と。すると彼女は、「その通りだ」「どの教育者にもこれは共通に理解されている」と胸を張った。二〇〇五年一二月の第三回PISAセミナーになると、彼女は、「学習の概念」として、「社会構成主義、生徒の積極的な役割」「学習は状況による。学校文化と学習環境の重要性」「総合的教育学」「学業達成と生徒福祉とのバランス」の四点を指摘している。
 構成主義は、一九六〇年代に、行動主義に対する批判として、認知心理学などの分野で起こってきたものである。構成主義とは、知識とは既成の固定したものではなく、個々人が自ら編成していくものと考える立場である。とりわけ、知識には、構成する主体の何らかの目的・価値観が前提になっていることを認める立場である。
 すなわち、知識は、知りたいと思い探すからこそ、目的に応じて事実から切り取られ、構成されるということである。それぞれの主体の知りたいという意欲によって、それぞれの主体が獲得する知識の中身は違ってくる。事実は一つだが、知識は人間によって多様に作り出されるということだ。したがって、知識について真偽を問うことはできても、誰の知識も完全ではないということになる。知識を獲得するのに、教科書を覚えればそれでよいというものではない。
 だからフィンランドでは、教科書は唯一正しい知識の集成というものではなく、一つの良質な資料・案内と見なすので、公権力による検定も必要はなく、自由採択となる。また、教科書を使って学ぶことはあっても、何が何でも教科書を覚え、教科書を学ぼうという姿勢は必要なくなる。教師もそれを画一的に教え込もうとはしない。
 だから、どれかの知識を知らなくても欠陥人間というわけではない。誰もが皆、知識は不十分なのだ。だから、学習し続けるのだ。勉強はできるに越したことはない。しかし、できなくても、そのうちできるようになればよいわけだ。無能力というレッテルを貼ることは、教育の仕事ではない。このように考えるのは、教育学がそうなっているからであり、教育省と国家教育委員会が「社会構成主義」をとっているからなのである。そして、国には知識を管理しようとする発想はない。
 その社会構成主義は、一九九〇年以降に、先の構成主義に対する批判として教育学理論のなかに起こってきた。構成という活動は、孤立した個人の活動ではなく、社会的な脈絡、すなわち社会的な人間関係の中で起きてくるというのである。したがって、学習の質は協同という活動が大きく左右することになる。社会構成主義で得られた知識は、「協同の知」と呼べるものである。いわば、教え合い、学び合う中で、より充実した知識を作り上げていくということである。自分のクラスやグループで学ぶことでよりよくわかり、不十分な知識をより充実したものに高めていくということだ。
 これにより、まさに、知はオープンであるという、開放型知識観がフィンランド教育界に取り入れられることになったのである。